人を赦すこと

聖書では人を赦しなさいという箇所が出てきます。
でもこう思います。

できねー

と。(笑)


なんか聖人君主のようになりなさいと言われているような気がして、まぁ理想はねって感じ距離をおいてました。

理屈も知ってます。

自分がイエスの十字架によって赦された身だから、自分も相手のことを赦しなさいと。
自分が裁かれる身であったのに、それを棚に置いて他人を裁く自分は何さまかと。

はい、ごもっともです。
でもこう思います。

できねー

と。


理性で分かっていても感情の方が大きいからです。

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でも「神の小屋」を読んでイメージが変わりました。

赦すということは、聖人君主になれとか、信仰者として立派になれとか、そうではなく、自分自身が自由になるためだと。

「赦すとは相手の首にかけた手を手放すことだ」

相手を裁くというと、自分が相手をコントロールし、いつでも相手にダメージを与えらえる、相手の首を締め付けれる、と思っている。

でもそれは相手が不自由になり、仕返しをしていると思ってるけど、実は自分が不自由になっている。

自分がその不自由さで苦しんでいるのをみて、神は救い主を送ってくれたと。

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ではどのように赦すのか。

「ことばで宣言しなさい」
と書いてありました。

つまり

「おまえを赦す、おまえを赦す」

と何回も言うことです。

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主人公は娘を殺した犯人を赦す場面になります。
愛する娘を殺した人をどうしたら赦せるか。

でも神は赦せと。
それは主人公を聖人君主にするためにではない。
主人公を自由にするため。

普通は報復をしてスッキリするものと思います。
これが一般的な考え方です。

でも神の考えは、人が思う一般的な考え方とは違うことがよくあります。

裁くのは神に任せなさい。
相手を赦しなさい。
そして自分自身が自由になりなさいと。
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僕も人間関係で裏切らたことがあって、どうしても赦せない人がいました。

「最初は何回も何十回、何百回繰り返し来るだろう
その度に赦しなさい。
そのうちだんだん減ってくるから」

実際やってみて、なるほどなと思いました。

イエスは言います。

七を70倍するまで赦しなさいと。
これは490回赦すのではなく、何度も赦しなさいという意味だそうです。

今までの言葉のイメージは、
これから起こるであろう腹たつものをその都度赦しなさいと思ってました。

もちろんそれも含まれると思いますが、
あることで深く傷つき、相手を恨んでいる時、同じ光景が何度もフラッシュバックしてきます。

その度に怒りがわき、何回も相手を裁く。

この、何度も、というのが七を70倍するまで赦しなさいと。

傷が深ければ何十回、何百回と、心に沸きフラッシュバックがくる。

それを「赦す」と宣言していく。

これを繰り返すことでだんだんと解放されていくのだと、実体験を通して学びました。

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今も時々出てきます。このフラッシュバックが。
でも大分回数は減りました。
たまに思い出すくらいです。


赦すには時間がかかります。

それは傷の深さ、その人の信じていた、という信頼が高ければ高いほど時間がかかるかもしれません。

でもいつか必ず相手を赦せる日が来る、
それはイエスによって自分が赦され赦し自由になるために。



そう今回思わされました。




今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大


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