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「必勝戦策」に入る前の予備知識

 てなわけで「必勝戦策」の内容を発表するのですが、事前に大まかなアウトラインをひきたいと思います。

 ヘッダーの画像は必勝戦策の肝である「富嶽」の図面です。

 知久平さんは海軍時代に「次の戦争は飛行機で決まる」と確信していました。まだ、第一次世界大戦が始まる前です。とにかくその気付きを得たら、飛行機の勉強をひたすらします。

 そして第一次世界大戦で飛行機は急激に成長します。そして戦争が終わると飛行機の需要がガクッっと減ります。

 しかし日本では中国大陸で国民党や各種軍閥、ソ連とドンパチやっていたので飛行機の研究が盛んでした。実地検証ができました。

 そして残された証言や資料から推理すると、知久平さんは「飛行機はどこまで大きくすることができるだろうか」と考えていた節があります。


 工業大国であるアメリカに多くの技術者を派遣し、冗談抜きでその「通信費」だけで莫大な赤字を出していました。とにかく情報収集していました。

 昭和14年頃にアメリカにいる中島の社員から「アメリカはエンジン六基の飛行機を想定しています」と聞くと、「アメリカで可能なら日本もできる」と思い、秘密裏にその計算を三竹忍(後の輸送機工業の設立メンバーの一人)という人物にさせていました。

 日米開戦が始まった時は、創業者メンバーで右腕だった佐久間一郎さんに、

「佐久間くん負けるね」
「どうしますか」
「そのための中島だよ」

 なような話をし、戦局を読みながらエンジン六基の巨大飛行機の運用を考えていました。そして昭和17年6月に英語の短波放送でミッドウェイ敗戦を確信します。情報戦のフェイクニュースでないことを確信します。

 おそらくこれで決意したのでしょう。

 昭和18年1月に精鋭の技術者を集めて巨大飛行機計画の話をします。

 真ん中が知久平さんで、左から三番目が小山悌さんです。場所は中島倶楽部で、現在の社教センターです。

 残念ながら米軍接収後に火事が起き、中島倶楽部の痕跡はありません。どうでもいい知識なんですが、この火事で米軍将校の子供が亡くなりました。米軍は「日本人が復讐しに放火した」と思い、一時期、「太田や尾島の人」を酷く怖がったそうです。

 話を戻します。

 精鋭の技術者を集めた知久平さんは巨大飛行機の開発の説明をし、技術者たちは細かい詰め作業を開始します。


 そして知久平さんは「必勝戦策」の論文を同年、8月8日に書き上げます。


 あらら。序文のちょい見せをしちゃった。テヘペロ。

 旧仮名遣いの文章なので読み慣れておらず、「これってどうやって読むんだ?」が何度も起きています。

 旧仮名遣いの資料を読む際のコツは「声に出して読むと頭に入ってくる」です。リズムで言葉の意味を感じ取り、不思議で勢いで読めました。

 とにかく知久平さんは「ヤバタニエーン。そうだ。巨大飛行機を作っちゃおう」と発作的に思ったのではなく、前々から飛行機の限界に挑戦する野心を秘めていた模様です。

 黒船の一撃が日本を変えたように、巨大飛行機で戦局を変える論文を書き上げ、50部だけ刷ります。

 50部ですよ。50部。私はその28部目がある場所を発見し、そこに足繁く通っています。手元に置きたいのが本音ですが、資料の安全性を考えれば然るべき場所がいいでしょう。

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