生きてる感覚

正直他人にあまり共感しないわたしです。
他人にというより普通の人とは話が合わないだけかもしれないけれども。

返信先: 
@5910tiger
ほんとうに良かったですよ。
本当の話だけにしか興味がないです。
午後2:12 · 2021118日·Twitter for iPhone

https://twitter.com/i_dnt_need_u2/status/1351034666485215234

六歳の夏に目の前で血を吐いて人が死んだのを見た。しかし別に驚いた記憶もない。葬式までのあいだ、たくさんの人が泣いていたけれど、自分はそういう事はなかった。生まれつきそういうタイプなのかもしれない。

人は必ず死ぬし、早く死ぬ場合もあるし長生きして死ぬ場合もある。ずいぶん長生きしてから死んだ人を見たこともあるし、若くして亡くなった人もあった。他人の死に自分が直接関わったこともある(申し訳ないことをした)。

生きている実感もなく幽霊のように生きていた時もある。それでも少しずつ回復してきて、今がある。

村上春樹さんの小説『ノルウェイの森』に「自分に同情するな」という有名なフレーズがある。傷ついた人間が心に刻むべき事は、これに尽きるのではないかと思う。

この世に生まれてきた事はそれ自体が厄災である。しかし、同時に祝福でもある。

阪神淡路大震災のニュースに触れたとき当時まだ子供だった自分は、片目から一筋の涙をこぼした。何の涙だったのかは未だにわからない。

多くの人がそうであるように、自分には1日1日が殺伐とした葛藤とサバイバルの日々だ。心から安らいで安心して眠った夜があったのかどうかも覚えていない。基準がわからない。暖かな布団暖かな食事暖かな住居、あるいは、一泊40万円の最上階のスイートルームで過ごしているときも、心が弛緩する事が無い。

災害を経験するとは、死ぬまでそういう日々を送ることだと思う。そしてそれはそれで構わないと個人的には思う。災害とは自然災害だけではない。生まれ育った環境がそのまま家庭環境がそのまま天災である場合もある。

何不自由なく災害にも遭わずに生きて来れた人は幸いです。幸せそうな人を見かけると、こちらまで幸せそうな気分になる。それが何よりの励みだ。自分にもそういう可能性があったと感じることができる限り、完全な不幸なんてありえないのだ。

目の前で鮮血を吐いて倒れた父親がそのまま絶命するの眺めていた自分は、それをそのまま受け入れた。将来お医者さんになってパパみたいな人を助けるんだとかそういう方向にはいかなかった。ただ素直に人は死ぬものだということを当たり前の事実として受け入れた。自分にとって死とは、逃げ惑う対象でもないし、追いかけてくる死神でもなく、小学1年生の夏休みの記憶の1つである。

人は全員死ぬのであるから、生きていることの意味を知りたいものだ。死ぬことが不幸だなんて思ったことがない。それでは死んだ父親は不幸だったことになる。物心ついた頃から、死の影がちらついた父のいる家庭に育ったからかもしれないが、わたしにとって死は日常の中にある。自分にとって死ぬのが怖いのではなくて、思ったとおりに生きられないことが恐怖だ。どうせ人は全員死ぬ。死を予感せずに生きていく事の方が恐ろしい。死にたくない死にたくないと思いながら死んで行きたくない。いつでも死ぬぞ死ぬぞと思って生きている。

それでもきっと死に直面すれば惨めに泣き叫びながら生に執着するんだろうと思う。子供の頃は、真っ赤な血の海の中に倒れた父親の死に様をかっこいいと思っていたが、今はそんな簡単なことではないと何となく気がつき始めている。余命を宣告されながら、最期の瞬間まで生きる、そんなことが自分にできるかと問われたら謎だ。

ただ1つこれだけは確かだが、本気で生きている人しか相手にしたくない。生き延びる為だったら何でもすると言う人が好きだ。

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