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永代和盛の囲碁人生 Ver.3(院生寮へ入寮直後)

東京の叔父さん

長崎空港から一人で飛び立ち、羽田空港に到着。
羽田空港まで迎えにきてくれたのは東京に住んでいる叔父さんだった。
小学生の少年少女全国大会で毎年、東京に来ていたがその時はいつも叔父さんの家に泊まらせてもらっていた。

学校の先生をしている叔父さん夫婦は優しいながらも厳しさを持ち合わせていた。

好き嫌いの多い自分が、強制的にピーマンを食べさせられる「ピーマン地獄」と名付けた生活は懐かしい思い出だ。その他にもたくさん嫌いなものを食べた。しかし、一向に好き嫌いがなくなる兆しはなかった。

この経験で嫌いなものを無理して食べても、食べられるようにはならないと学んだ。

食わず嫌いでもない、本当に嫌いなのだと。

でも、中学を卒業したあたりから少しずつ自然とピーマンも含め、嫌いなものでも少しずつ食べられるようになってきた。無理に食べなくても大人に近づくにつれて大丈夫だと今は考えている。

千葉県幕張の囲碁研修センターに到着

話はそれたが、伯父さんに羽田空港から千葉の幕張まで送ってもらった。囲碁研修センターに着き、玄関から入るとまず卓球台が待ち構えていた。ここに住んでる間は最初から最後までかなりの頻度でお世話になった卓球台だ。三年間みっちりやった。

入寮メンバー(当時)

入寮当時は台湾から王唯任(現五段)、黄奕昀(現在は熊丰七段)、張豊猷(現八段)の三人。
他にはロシア、ルーマニア、エミルくん(国忘れた)などがメンバーだった。日本は自分だけだったのでしばらくは日本人がいなかったことになる。
(のちに林漢傑現七段や、三谷哲也現七段も入寮する)

なぜ、ヨーロッパの人が多かったのか。
それは、ヨーロッパ勢の寮費は無料だった。
院生も無料だったと思う。(食事代は覚えていないが)
院生の年齢制限もない。
だから来たい人も多かったと思う。

これはヨーロッパを中心にした世界的な囲碁普及に力を入れている為である。
勿論、今となっては大事なことだと分かるが、当時は子供。
不平等だと思っていたのでそのシステムを良くは思っていなかった。

しかし、当の本人たちは日本にお世話になっているということも感じているし、人柄も優しい人が多かった。自分は誕生日プレゼントなどももらってしまうくらいである。一回もあげたことがないのに。スミマセン。

それでも、滞在費はどうしてもかかってしまうので、皆はプロ手合の記録、秒読み係をしたりして、お金を稼いでいた。
当時は対局時計を使わずに全てに秒読み係がついていたので、水曜の低段の対局。木曜の高段の対局。早碁があれば月曜、世界戦などは不定期で行われていた。

本気を出せば10万くらいは軽く稼げるのである。特に世界戦は別でスポンサーがつくし、棋士と同等の記録料をもらっていたと思うので、皆が一生懸命に申し込みをしていたように思う。世界トップクラスの碁を間近で見れて、さらにお金までもらえる。これ以上のことはない。
(一部の人はお国の実家に仕送りをしていたのではないかと噂が出るほど)

しかし、私は中学を卒業したらその係を申し込めるのだが一回も申し込んだことはない。それは後述する。

そして、入寮3日目くらいでなんとエミルくんが国へ戻ることに。
すごいタイミングだった。ほとんど一言も話してないので、当時は何も感じていないが、今考えてみると大変なことだよなと思う。
人生がガラッと変わるわけだから。

多分、日本で囲碁の勉強をするくらいだから囲碁も好きだっただろうし、プロになりたかったと思う。それを諦めて国に帰るとはどういう気持ちだったのだろう。

あとで自分が体験した長崎へ帰るという気持ちとはまた少し違う感じだと思うので、興味深いことではある。

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