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褒められたい対象が多ければ多いほど疲弊する

SNSと言われるものを、仕事と連絡用でしか使わなくなって久しい。

Twitterは日本に導入された頃、番組で取り上げるため、アカウントを作り、番組用のそれらも作り、まだ当時どこもやってなかった番組連動システムもつくり、やり切ってしまったため、すぐやめてしまった。TLを追うとあの特集の辛さが蘇ってしまうから、いまは死に垢があるだけだ。

Facebookも友人にスケジュール共有したいから、といわれ始めたが、リアルな人と繋がる辛さに、すぐ心が折れた。私はそんな毎日海に行ったり、サーフィンしたり、肉を自分へのご褒美だといいながら食べたり、女子会だといってフォトジェニックなお店で甘いお酒で乾杯したり、あらゆる社会慈善事業などにも貢献したり、などは全くしていないし、かといってそれらをやろうとも思わないため、書くことがないのだ。リア充爆発しろ、という言葉はこのためにあるんだな、としみじみ思った。
インスタなどは以ての外ですね。はい。


そういうのをやらなくなって数年経って、とても身軽になってきたなぁ、と思う。


自身の日常が誰かの目に触れ、更にそれに対し、誰かが賞賛をくれる、といった毎日は、確かにいいものであろう。
なんの拠り所もない、価値判断も基準値も書かれていない人生といった道に、誰かが『いいね!』といってくれること。
それは不安な足元をほのかに照らす灯りにもなるだろう。ああ、これは誰かが『いいね』と思ってくれたんだ、と。だから大丈夫だ、と。



でも、灯りを集める事に意味はあるんだろうか、と思う。
照明収集マニアなら話は別だ。だが、自身の生き方に大切な指針となるような灯りは、確実で、そうそう消える事のないものが一つや二つあれば事足りるのではないか。

どこの誰ともわからない人達の賞賛はあれば嬉しいが、その一つ一つはとても儚く、蛍の灯り程度のもので。まぁ、でも蛍といえど、それが100匹、200匹、何万匹といれば強大になるだろう。

しかし、蛍をそこまで寄せ付けられるような甘い水を、人はそんなに供給出来るものだろうか。


共感を得られれば確かに嬉しい。
でも、その数量には意味があるのか。確実に自分を照らしてくれるであろう数人がいれば充分なのではないか。


自身の灯りになってくれる人が側にいるということ。
その大切な人達から灯りを貰えればそれだけでいい。


ある友人は言う。

『いいと思うよ。それは正しい。俺がそういうんだから信じろ。それは間違っていない。絶対に正しい。だから、大丈夫だ』

なんの根拠も統計もソースも膨大なメタデータもない。そこにあるのは絶対的な自信だけだ。それのなんと心強いことか。

自身の切り売りは出来るならやればいいけれど、求めるものが違ってしまうと、それは疲弊に繋がる。
生むために苦しむならそれは幾らでもするべきだろうが、生んだ先の苦しみはなるべく少ない方がいい。




うちの猫達の欲求は単純だ。寝て、食べて、遊んで、たまに甘えているだけなのに、それらは時にヒトの糧になる。

単純で素晴らしい。それだけでいいじゃないか、と彼らを見ていると、本当にそう思う。




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