通っていた学習塾で宗教が始まった話

こんばんわ。仕事も繁忙期が過ぎほっとんど暇なのでこうしてまた思い出を書き綴って行くことにします。

記憶が曖昧なので時系列がおかしいのは見逃してください。

今日書こうと思っていたのは私が中学の頃に通っていた学習塾のお話です。

なかなか面白い話であるのでぜひ最後まで読んでってください笑

1.自宅から半径2分以内の塾

あれは、、、ある夏のことじゃった、、、夏だっけ冬だっけ?

まあどっちでもいいんですが。確か冬だった。

中学校2年の冬の定期テスト。

成績は中の上くらいですかね。

授業は寝るし家帰ったら遊ぶばっかりで部活もなにげに忙しいし。

それを見かねた親が塾に通ったらどうかと言う提案をして来ました。

正直私はごっつ成績が悪いわけでもない。

めんどくせええええええええええええええええって思って反抗心的に親に無茶な提案をしました。

「家から2分以内だったら別に通ってもいい」

私はしってたんですよね。

そんなところあるわけがない!!!!!

ただ迂闊だったんです。ちょうどその頃新しく学習塾が開設されたんですよね。

家から自転車で一分のところに。

2.東ローランドゴリラと呼ばれた講師

半ば強制的に入塾させられた私はまずダメだった社会、英語、数学をとることになりました。

教師は一人で回しているようでここでは先生の昔のあだ名の東ローランド先生と呼びましょう。

先生はワックスで一気に髪を持ち上げた25.6くらいの若い先生でした。

今思えばアルバイトだったのかと思います。

顔は割りと整っていて整形外科のリハビリにいそうな顔立ちでした。

その頃ですね。

同じ中学の同学年、建設会社の息子K君が入ってきました。

この塾では私とK 君が最古参となるわけです。

その後1学年上の四人が入ってきたためこの六人が一期メンバーとなったわけですな。

で、この頃から出席ポイントでランキングが出るようになり5000Pで塾併設のガチャガチャが一回引けるようになりいろんな形をした消しゴムをもらえる仕組みとなりました。

私とK組んで1位辺りをせめぎあってました笑

先生の名前にちなんで東ローランドゴリラという動物が人気になりました。

そして可愛らしい先生の似顔絵も流行しました(させました)

3.始まった楽しいイベント

ちょうど一期メンバーが揃った二ヶ月後くらいに先生から

「みんなでイベントをしようと思います。何かやりたいことはありますか?」

といわれました。今思うと会社の方針だったのかと思います。

土曜日に塾にお菓子を持ちより雑談会をして過ごしました。

お菓子を買いにみんなで遠くのスーパーまで行き帰りにゲーセンで遊びプリクラをとったりしていました。(その頃の私は友達とプリクラとか慣れなさすぎて写らなかったんですが。。。)

そしてこれから定期的に塾でイベントをする旨を伝えられました。

この頃から私も調子に乗り始め「この塾の生徒でラジオをつくってネット配信するのはどうか」と提案し作り始めたり、他の子に至っては授業中に塾のパソコンでアニメを見始めたり、先生が話始め止まらなくなり授業が丸々つぶれるなどはざらにあったと思います。

生徒と先生の距離が一気につまったのはこの頃かと思います。

私含め一期生に至っては先生と距離がつまりすぎてハラスメントなどの概念もなかった時代ですね。

先生を怒らせると指をボキボキならされたり、背負い投げなどもされましたし私に至っては教室の奥側の壁をぶっこわし穴を明け、とりあえず壁になりそうなシールを貼った気がします。

この頃からちょっとおかしかったんだと思います。

4.イベントの本当の思惑とは、、、

私が2年の冬になった辺りから私の部活で一緒の子が一人入り、私のクラスメイトが3.4人くらい増え中一の子や小学生も増え大分賑やかになりました。

私たちは先生に「とにかく授業で手をあげること。それが内申点をあげるコツ」と教わり特に先生が力をいれていた社会ではみんなが内申点4か5をとるまでになっていました。

この頃からみんなが先生を本当の意味で尊敬し始め、言うことを聞き始めるようになりました。

そしてずっと続いていたイベントも何かを境に

「生徒全員で塾のチラシをポスティング」

などがありました。時には歩いて数十分かかるコースもいった覚えがあります。

今思えば生徒に塾の運営の仕事をさせてるようなものですね、、、

けれど当時の私含め全員がそんなに疑問は抱いていなかったのです。

洗脳の初めと親同士の対立

ちょうど一個上の学年の高校受験まで一ヶ月に差し迫った頃、その頃もこの塾はイベントと名のついたポスティング会が開かれていました。

そしてたぶんこの頃から先生のようすがおかしくなりました。

この頃から謎の決起集会が始まりました。

そこではまず「先生の命令、教えは絶対」でした。

テスト一週間前だろうが受験前日だろうが泣いても怒っても塾のイベントやポスティングに出なかったものは謎の決起集会にて立たされひたすら先生に謝る、理由をいっても

「勉強を教えてやってるんだからポスティングをやるのは当たり前だろ?そうだよな、みんな」

もちろんみんなは疑わず先生を信じているので複数で一人を追い詰めているのと変わらない。

そして次のポスティングでは必ず参加するというのを誓わせる。

そしてこれは三年生が卒業した頃も続きました。

3年生は卒業して塾をやめたりそのまま高校にはいっても続ける人がいました。

まあこれは彼らが卒業後も私はその場を見てたから言えますがやめた彼らにたいしての扱いはひどいものでした。

「逃げた」

「裏切り者」

これに対し疑問を感じるものがいなかったのが不思議でなりません。

この頃から先生が生徒に対し

お前らが分かってくれないから俺はこの塾をやめて実家の関西に帰ろうと思っている

といい始めました。

これに対しあるものは「ちゃんとポスティングするからやめないで」と泣いて引き留め、そして怖いことに

生徒全員で学習塾の本部に問い合わせ「先生をやめさせないでくれ」と懇願した

のでした。

そしてこの頃から親の間では先生に対する不信感が広まっていきました。

「授業が終わったはずなのに帰ってくるのが遅い」

「授業がない日も塾にいっている」

「ポスティングをさせられていると聞いた」

「そちらの塾にはいって社会だけは延びたけどその他の教科の成績が落ちた」

これらのことから「別に気にする必要はないのでは」という親と「先生を告訴しよう」という親に2分化されました。

ただ楽しかったのは楽しかったのがこのころ先生の誕生日だったのでK 君の力で手作りのペン立てをみんなであげたりしていました。

4.「光を勧める会」

この頃から謎の決起集会に名前がつきました。

先生の名前の一文字を取った「光を勧める会」

つまり先生の教えを勧める会

内容は主に先生に逆らった生徒のつるし上げとこの塾の宣伝方法を考えたり、あとは政治、歴史に対する先生の思想の抗議を聞いたりしました。

一番記憶に残ってるのは先生直伝

笑いの三要素

でしょうか。先生は関西出身だったので。

この頃も誰も何も言わずに先生のいった一言でも漏らさずにみんなノートにとっていました。

この頃から私はいろんな意味でこの先生変わってるなあ

と思い始めました。

次は私の洗脳が溶けるまで、溶けたあと、その後のお話をしたいと思います。


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