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年末だし『死刑』について、私なりに考えてみた

とか言っていたら、うpできるの年明けになってしまった…。
新年早々コレかよ感が強い。
っていうか、新年最初の記事がコレカヨ。

まぁともかく本題に入ろう。
それにしても、某真理教に興味を持出してから、こういう話題に引き寄せられやすくなってしまった。
そして、執行のニュースに対して「もう年末だなぁ」などと、一種の風物詩感があるのも如何なものなのであろうか。

私は多分、明確に死刑制度廃止派なわけでは、ないと思う。
なぜなら、めちゃくちゃ残虐な事件起こした犯人には、まず感情的にコイツは死刑で当然やろと思ったりするし
コンクリ事件とか、なんでこんな奴が死刑になんないんだよと思うこともあるからだ。

しかしである、めっちゃ悪い奴だったら、果たして人が人を裁いて殺していいのか?
と、考えると「いい」とは言い切るのは難しいなと思うし
とくにオウムにハマってからは「それはポアとどう違うんだ?」って考えると、余計分からなくなる。
某植松事件の際などにも、同じことを考えたりした。
勿論、まず法にのっとってるか否かという点はあるし、そこは法治国家の国民として重要である。
だけれども、そこではなく、もっと本質的に違うのか?と考え出すと『こたえられない』と思う。

命を奪うところまで、人が人を裁いていいのか?そこは人間の領域なのか?
神様がやってくれないから、人間がやるしかないんだけれども
でも、死刑も一種の殺人なのも、また確かなわけで。
娑婆に出しちゃいけない人間ってのはいると思うけれど。
やっぱり、落とし所は終身刑なんじゃないかなぁ……とか。

誰かが犯罪を犯して、勿論その犯人が一番悪い。犯人は法にのっとって罰せられるべきだけれども。
でも、その犯人『だけ』が悪いのか?っての、あると思うんです。
私達は社会で、お互い影響し合って生きてるわけで、
『そういう犯罪者が出てきちゃう世の中』を作ってる、皆も自分も、その一部だし
連帯責任のほんの一部くらいは、あるとこあるんじゃないかなぁ、とか。
犯罪しちゃう人、枠からはみ出しちゃう人、生きづらい人。『誰かは耐え切れず、狂うしかない可能性を、常に内包』しながら『そのババを引くのが自分ではありませんように』とお互い内心思いながら、社会が運営されていってるところ、きっとあると思うから。

めっちゃ悪い奴だったら、果たして人が人を裁いて殺していいのか?
私は多分『人間には、その権利(能力)はない』と思う。
でもこの問題は究極、論理的に話し合って結論が出せるものじゃないのかもしれない。
各々の個人的な、宗教観や倫理観、言ってしまえばある意味、感情論でしか語れない。
そんな気がする。

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