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オウム真理教事件は私の、自我が芽生えるキッカケだった

(この記事は、2019-12-17 上祐史浩さんの57歳のお誕生日に書いたものです)

画像は先日、質問箱にいただいたご質問である。
以下が、それに対する私の返答である。
『小学生の時初めて、テレビのワイドショーで存在を知る→
見た瞬間に、顔がドストライクすぎて衝撃をうける→
それで話してるとこ見てたら、私も内心、周りの大人のことバカにしてるようなマセクソガキだったので
この人めちゃくちゃ頭いいな!?!?同じ大人なのに、親とか先生とかと全然頭の出来が違う…!!!討論相手の偉いオジサン達でさえ、皆全っ然上祐さんにかなってないじゃん…カッコイイ……!!!!
と、即落ちした記憶があります。

それまでクラスに好きな男子とかおらず、現実の男子の顔を良いとか悪いとか思ったこともほとんどなく、漫画の王子様に憧れてる系のやつだったので、
ある意味、3次元男性に対する初恋だったかもしれないです。』

ご質問いただいたので返答を考え、書き記し、それによって自分の気持ちを客観視した結果
幼い淡いほのぼのとした想い出のつもりだったものが、思った以上にガッツリと『初恋』しており
いささか動揺しているし、大変に気恥しい。
なので、それについてのコメントは今はこれ以上差し控え、さっさと本題に移ろうと思う。

私は個人的に、オウム事件の一番怖いところは、特殊なやべぇ集団が特殊なやべぇ大事件おこしたことではなく
オウム事件をキッカケに、それへの反応によって
『オウムだけじゃなくて、日本国民皆頭おかしくない??人間って皆頭おかしくない?』
みたいなものが、露呈してしまったところだと思っている。
ぶっちゃけ、自分や身近に実害さえ及ばなければ、やべぇカルト集団がやべぇことしでかすのは、心情的にはあんまり怖くはない。
まぁやべぇ集団だしそりゃやべぇんだろうなァみたいな感覚がある。
でもオウム事件への『普通の人達』の反応の方も、当時明らかに頭がおかしくて、そちらのがよっぽど怖いなと感じた。

幼い頃の私は、犯罪者は『悪い人』だと、警察は『正義の味方』だと、お役所とかは『悪いことしない』と、ニュースは『本当のことを言ってる』と
親に虐待されようと『親は正しいものだから、これは躾なのだ。いい子にできない自分が悪いのだ』と無邪気に思い込んでいる、純粋無垢なタイプの子供であった。

それを、初めて「……あれ?」と思ったキッカケは、オウム真理教事件だったのである。
ヒステリックに反応しすぎてカルト集団よりカルト集団みたいな地域住民とか、犯罪者なわけでもない一般信者の住民票受理しないお役所とか、違法捜査別件逮捕ばっかりする警察とか、マスコミに責め立てられイジメられてるようにしか見えない荒木さんなどを見て
幼心にも「あれ…………??」と思った。

親は、昨日と今日、違う主張理屈でキレて私を殴る。
要は、躾の叱りなんかでは到底ない。単に機嫌が悪くて八つ当たりしているだけなのである。
それでも私は『親は正しいもの』『だからこれは正しい躾』『子供は親に従順でなければならない』『親を怒らせないようにできない自分が悪い』と思い込んでいた。
そこに、論理的な理屈付けなどなかった。
できなかった。
ただ私は、その親に依存してしか生活できない状況に耐えるために、ひたすらそう思い込もうとし、そして心底そう思い込むことに成功していただけである。
オウム事件により『洗脳』『マインドコントロール』という言葉を初めて知った。
そして、自分と親との関係も『それ』じゃないか?と思った。
オウム事件とは私にとって『人間としての自我が芽生えるキッカケ』であったのだ。
だからこそ、こんなに永年、心の片隅にひっかかり続けていたのだと思う。

冒頭で、上祐さんがある意味初恋だったという話をした。
確かに上祐さんは魅力的である。
しかし、テレビの中の人、芸能人なども含めていいのであれば、世の中に魅力的な異性などは、他にもたくさんいる。
親は私を、精神的に閉じ込めて育てていた。
親の好みでチョイスした友人以外との付き合いは禁止であった。アニメや漫画やテレビ番組や本などの娯楽も、親のチェックを通り合格した、僅かなものしか許されなかった。ましてや私が、同年代の男子に淡い恋心など抱こうものなら、必ずやヒステリーをおこし折檻されるだろうことは、容易に予測がついた。多分、芸能人のイケメンに憧れることすら許されなかっただろうし、その想いがバレれば、その彼が出演するテレビ番組、CMなどですらも、普段よりさらに厳しく禁止されることになったであろう。
だから、身近な人や芸能人ではなく、親が許可するニュース番組やワイドショーで情報を仕入れることのできる上祐さんに憧れた、という物理的な事情も、あるだろうが。

それ以上に、多分私は、オウム真理教事件によって、それに興味を持つことによって、
異性に憧れを抱くことができる程度にまで、初めて、情緒が成長した、自我が芽生えた
あれは、親の空っぽなあやつり人形だった私が、初めて『人間』になった、第一歩だったのではないか。
そんな気がする。

奇しくも、こんな文章をしたためている本日は、その上祐さんのお誕生日である。
お誕生日おめでとうございます。生まれてきてくれて、今日まで生きていてくれて、本当にありがとうございます。
多分、その他の人々と同じように、たくさんの人を傷付け、そしてたくさんの人を救いながら生きてこられた
器の大きい存在であるが故に、その範囲が普通よりも広い、貴方ですが
貴方に救われて生きている人間が、ここにも一人います。
きっと他にもたくさんいることでしょう。
今の貴方なら、これからもたくさん、貴方に救われる人は増えていくのでしょう。
本当に生まれてきてくれて、ありがとうございました。

人間はそもそも、自我が芽生えなければ、それを許されていなければ
人を好きになることはできない。いやまず、他人の存在を正しく、認識することすらできない。
これからもきっと、オウム事件を振り返る度、私はふと、自分が人形から人間になった瞬間を思い出す。

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