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森達也さんの『A』『A2』観てきました

(この記事は、2019-11-09 に書いたものです)

先日、シネマハウス大塚で放映中の、森達也監督『A』『A2』を観てきた。

初めてテレビの画面越しに『オウム真理教』という存在を知った時、私はまだとても幼かった。
しかし、私の個人的な家庭環境や資質などにより、当時ただ盛んに話題になっていたということを越えて、彼らの存在はずっと長く私の心に強く引っかかり続けていた。
その思いも、月日の流れの中で薄れてはいく。しかしそれでも、時おりメディアで話題になる度に、長年貼ってあった指名手配書を街で見掛ける度に、私の心のどこかには、あの集団が残り続けていることを感じていた。
そんな想いを、一際強く思い出したのは、去年の死刑執行である。
長い月日がすぎていた。当時ほんの幼かった私も、随分と歳をとっていた。
執行当日、災害レベルの激しい雨が降っていたことを記憶している。
昔あれだけ連日テレビ写っていた彼らも、逮捕された途端、新しい映像は出てこなくなる。あれからもう20年以上である、当然彼らも歳をとり容姿なども変化していることだろうが、たまにメディアにのぼる映像や写真は全て当時のものだ。
私の中で彼らは、2、30代の『オウムの若者』などと呼ばれた青年から、ずっと歳を取らない。それはどこか既に故人じみている。しかしまた、彼らが死刑囚であることを知っていながら、どこかずっと死なない存在であるかのようなイメージがあった。
私は少なからずショックを受けていた。正直私は彼らに対して、ファンのような気持ちを寄せていたのだ。
しかしショックを受けながらまた、不謹慎な期待のような気持ちもあった。過去のオウム報道。あの質量と熱量。当時私は、それを確かに楽しんでいた。そしてまたあの一種のお祭り騒ぎがくるのかと、俗な期待をしたのである。
だがその期待は裏切られる。報道は予想よりあまりに呆気ないものだった。ちょうど土砂降り災害に見舞われており、そちらの報道が優先されたこともあるだろうが、まさにその雨に流されるように、彼らの死は世間の関心からアッサリと移り消えていった。
『あの頃』をいつまでも引きずり続けていたのは、私だけだったのか。オウム事件はもう、世間にとってはとっくに『終わった話』なのだ。
私は取り残されたような気持ちになった。
そして、個人的にオウムの情報を検索して読み漁り動画等を見、無料でネットに転がっている情報だけでは物足りないと思っていた矢先、森達也監督の『A3』無料公開に辿り着いたのである。
あまりにもナイスタイミングだ。
宣伝として無料公開されるにしては、あまりに質量ともに大盤振る舞いすぎるそれを、私は夢中で読んだ。そして大変感銘を受けた。そのニュートラルで知性溢れる視点、冷静に客観視し時に皮肉ったりなどしながらも根底に世界への愛が溢れるそのスタンスに。夢中で読んだ。A3はかなり文量があるのだが、それを繰り返し繰り返し読んだ。スマホで気軽に読めることもあり、仕事で忙しい時も通勤電車や5分スキマ時間があればA3のページを開いていた。一種の中毒であった。
やがて無料公開が終了すると、私はその日のうちにA3の電子書籍版を購入した。既にあれだけ読み込んでいたのにである。その方が気軽に読めるだろうと電子書籍を購入したのにも関わらず、結局紙の本も欲しくなり、A~A4全4冊をAmazonで通販した。
私は感動していた。当時からずっと感じていた、オウム事件の報道や世間の反応への、違和感、反発感。
確かにおこした事件は勿論悪い。悪いというか、犯罪なのだから当然刑事罰を受けるべきで、そしてその通りになった。それは当然のことだ。
しかしである、同じ団体に所属していたからといって、その個人個人は何も罪を犯していない、事情すら知らない人達にまで、『オウムである』というだけで十把一絡げにして弾圧、攻撃するのは、いかがなものなのであろうか。実際の実行犯や計画を知っていた者は上層部のごく一部だけであり、末端信者などは何も預かり知らなかったことは、既に周知の事実であったはずである。
確かにオウムの信者には、閉鎖的で排他的という攻撃性の温床になりがちな側面は強くあると思う。しかし、それはオウムをひどく拒絶する地域住民なども、同じではないのか。むしろどちらかというなら、感情的にオウムを責め立てヤジを飛ばす一般住民達の方が凶暴性残虐性が強いように、私の目には写った。オウムの信者達が、宗教家なだけあり、純朴で知的でおとなしそうな青年達が多かったこともあるだろう。当時まだ幼く、テレビのニュース等でしか、つまり明らかに偏ってオウムに不利な視点での報道しか情報を得られない状態でも、尚そういう印象を持ったことを覚えている。ザックリ言えば、少なくともどっちもどっちではないかというのが正直な感想であった。
しかし、私は自分のその思いを表現することを恐れた。当時、オウム真理教といえば世間では絶対悪であり、完全に否定していい、むしろ否定すべき存在であった。少しでもオウム寄りと取られかねない意見や視点でも述べようものなら、自分の立場はある意味オウムと同じ『あちら側』になるのではないか、という恐怖があった。
あちら側とは、つまり被差別側である。
そして私は自分のそんな想いを封印した。封印してもう長い年月が経っていた。長い年月を経て、私はやっとこの作品に出会った。
そこには当時、私が求めていた、違和感への答え、私が求めていた知性あるニュートラルな視点が確かにあった。
こうして書籍のAシリーズに、そして森達也監督自体にはまり込み、そして映画を観に行った。
個人的な感想としては、事実の流れストーリーとしては書籍版の方がより分かりやすいが、映像作品という媒体、そこに映し出される生身の人々を見て、書籍以上に非常に情緒を揺さぶられ、たくさんのことを感じ入った。

なので、その思いを書き綴り、感動を形にして残したいと思ったのである、が。
私はまず、このドキュメンタリー映画に、大変真面目に感銘を受けた。
あの頃のオウム事件の思い出、当時幼いながら色々考えていたこと、宗教とは正義とは社会とは人間とは家族とは。拙い頭ながらも、自分なりに、色々なことを真剣に考えた。
真剣に考えたのである。真剣に見ていたのである。が、それと並行して、鑑賞中ずっと、とある低俗な煩悩が私の胸中を充たしていた。
主演の、荒木さんが、可愛い。
なんかもうものすごく可愛い一々可愛いすごく可愛い。存在が可愛い。いやもうほんとに可愛い。可愛いったら可愛い。
よって私は、頭をフルスロットルさせて真剣に考察しながら、同時に激しい萌えに襲われるという、大変凝縮して充実した濃ゆい数時間を過ごした。
そしてオーバーヒートした。
鑑賞後、なんと過呼吸気味になり貧血をおこし、必死に倒れないようにフラフラと帰宅するハメになった。本当の話だ。自分の反応に、自分が一番驚いた。
それほどまでに私は、この作品に魅入られていたのである。

ニュースなどで映される信者たちは、皆モザイクぼかしがかかっており、音声なども変えられテロップが添えられていることが多い。一見して乱心状態で修行に集中していたり、麻原の説法テープ等を聞き入っていたりする彼らのあの姿は、確かに頭のおかしい話の通じない我々とは別の世界にいってしまった人間のような印象を、私も持っていた。
しかし、この映画に映る信者たちは、全く違った印象であった。本当に驚くほど、彼らは普通の人間である。
確かに当然教義の話になれば、我々とは感覚が違うと思われるところはちょくちょくある。しかしながら、それ以外は全く普通に対話のできるごく普通の人間なのである。むしろ基本彼らは純朴で優しい。とくに彼らを強く迫害する一般人の中に囲まれている状況では、その一般人たちの方が、余程話の通じない凶暴で視野の狭い人間のように見えた。どこに移っても、そこの地域住民たちに追い出されるので、拠点を点々とせざるをえない。オウム関係者だとバレれば新しい住処を借りることも中々ままならない。
『オウム反対!』『オウム出ていけ!』ヒステリックに叫ぶ住民。禍々しいデザインの立て看板。皮肉なことにそれらはまるで、一般人側の方が、攻撃的でカルト的な集団かのようでもあった。むき出しでぶつけられる悪意に、ただ穏やかに困ったように苦笑し、仲間内で励まし合い、修行に励む信者たち。それは、ついそちら側の方に同情したいと、思わせるに充分であった。

固定観念がぶち壊される、頭の中が、足元がぐらぐらする。誰なら正しいのか何処なら正しいのか、多分、何も、正しくなんかないのだ、貴方も私も。
何も絶対的に正しくなんかないのなら、問題は正しくないことではない、自分は正しいと思い込むことだ。人は常に間違いを矛盾を孕み続けている。それ自体よりも、そのことを忘れてしまう無自覚になってしまうことが、一番の間違いなのだろう。
麻原だけが絶対に正しいと思い込み、オウムは罪を犯した。だけれども、この既存社会が絶対に正しいと思い込み、そこからはみ出る者を迫害する我々には、果たして罪はないのだろうか?マインドコントロールだ妄信だと言われるオウム信者だが、少なくとも彼らには『自分で選んで、麻原を崇拝している』自覚はあるだろう。ならば、我々は?現在の既存社会だけを絶対視することもまた、一種の信仰である。信仰自体は決して悪いものでは無い。しかし、それもまた信仰であることに、無自覚なことは、危険であると思う。
人間は、個人対個人ならいい人が多い。だけど、組織になると急に腐りがちになる。それでも人は、群れたい生き物だ。社会を作って生きていく、一人じゃ生きていけない、弱くて愛おしい生き物なのだ。
一人じゃ生きていけないから、群れる、自分の組織に愛着を持つ、その組織を守ろうと努力する。それは愛だ。確かにそれは人間らしい、大切で美しい側面もあるのだろう。しかし、組織を守るためには、えてして他の組織との戦いが生じがちだ。相手を自分とは違う組織の人間だと思うと、途端に思考停止し残酷になりがちだ。人間の、一人では生きていけない弱さが、愛も戦争も生む。それこそが人間らしさであり、まさに人のカルマなのだろう。
出家し世俗の縁を執着を断っているはずの信者たち も、皆すごく自分たちの教団を、そのコミュニティーを大切にし、依存しているように、私には見えた。
実行犯でもなければ何らかの事情を知っていたわけでもなく、ただ日々真面目に修行生活をしていただけの信者達にまで、もうオウムなんかやめろ教団を解散しろと迫ってる人がいた。だけど、一体誰にそんなことを言う資格があるのだろうか。
我々の日常を脅かしたオウムに我々が怒りを感じるのと同じように、我々が我々のコミュニティーを大切にし依存しているのと同じように、それはきっとオウム真理教の信者達も、またそうなのではないのか。
なぜ私が長年オウムが引っかかり続けたか、やっとそれが言語化できるようになった気がする。それはまるで、社会の世界の全てのミニチュア。その矛盾の、全てが凝縮されて詰まっている、そんな気がしたからだ。
自分や自分の身近な人が直接被害を受けたわけでもない、全くのアカの他人の第三者であるのに、やたらとオウムにキツく当たる一般市民を見て、私はなぜ無関係なのにそこまで感情的に憎しみを表現できるのかと思った。それは多分、オウムを違うコミュニティの相手だと思っており、違うコミュニティの人間をどこか、人間じゃないと思ってるからではないだろうか。もしそうだとするならそれは、違うコミュニティの相手にならサリンをまいてしまえる心理と、一体何が違うのであろうか。同じではないのか。
しかし、彼らが過剰に反発するのは、もしかしたらまた無意識のどこかで、本当は無関係ではないと感じている部分もあるからなのではないか。オウムの事を、自分たちとは全く違う人種だと思いたい切り捨てたいそう思っても、彼らが自分たちと同じ人間であることをどっかで感じ取ってしまう。だからこそ過剰に拒絶するのではないのか。オウムが病理を抱えていないということではない。我々もまた同じ病理を抱えているということだ。それに気付かされてしまう。無意識下のそんな恐怖が、アレルギーのような過剰な拒否感を抱かせるのではないだろうか。自分が所属する集団への愛は、いつだって外側の人間に対する残酷さと等価交換だ。しかし、コミュニティの否定群れることの否定は、人の在り方の比定にもなってしまう。

我々は、オウムの信者もいわゆる一般人も、我々人間は皆、一人では生きていけない。それ故にきっと人はいつだって、残酷で、そして優しいのだ。その残酷さも優しさも、同じ源からきている。
誰も、何処の組織も、絶対的に正しいものなんかない。勿論自分自身も。何かを盲信して思考停止し絶対服従することは、きっとある意味とても楽だ。だから魅力的だ。でもそれじゃいけないのだ。きっと自分ごときには、自力で真理なんか掴めない。だから迷い続けるし、悩み続ける。でもそれでいいのだ。考え続けるしかないのだ、自分の頭で。
終末さえこない日常、何が正しいのか分からない曖昧で生温くて、時々驚く程に残酷だったり、優しかったりする、この世界で。
それでも常に、せめて、自分の目で見て、自分の頭で考え続けよう。そうやって、生きよう。
そう思わせてくれる、作品でした。

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