人を信じてはいけないと、思い込んでいた

人を信じてはいけない。

長年感じていたことである。
『人を信じると痛い目を見る』、『人を信じても得しない』、『人にお願いしても、自分がそれに足ることをしていないと応じてくれる訳がない』。


数々の実体験がそうさせたのだが、その背景に思考を伸ばすことを、今まではしてこなかったように思う。ただ、あまりの自分の酷さに心理について齧ることが多くなり、色々と勉強していくにつれて。『自己肯定感』とか『所属感』とか、そういう言葉を聞く機会が増えてきた。


よって、少しだけ検証してみようと思う。



他人もそうだけど両親も

思えば、小学中学高校と他人との関係については酷い方が多かった。
自身が一人遊びとシミュレーション小説を好む変わり者だったのは大きかったし(これを自覚していたので人前では隠す傾向が強かった)、後自分の身だしなみなどに関して無頓着(この傾向は今でもある)であったのも大きいと思う。

スクールカーストは底辺寄り、他人からのおふざけ程度の暴力や実際の暴力、金銭搾取に遭ったことも複数回ある。
じゃあなぜそれでも12年間学業をやり遂げられたかと言えば、『不登校という手段を取れなかった』という一言に尽きる、と思う。恐らく、やり遂げたというよりは勉学がそこそこできていたからどうにかなったとか。そういった塩梅だったのだろう。

そして高3の秋、運命は大きくねじれた。ねじれた話については今も傷が大きく、書ける気はしない。書ける気はしないが、親の違法行為によって進学の夢を見失った、とは書いておく。

なぜなら、この喪失からいよいよ人間不信傾向が加速し、学業というアドバンテージを失って放り出された狭い世界で。自分のあんまりのポンコツぶりに今でも精神は撚れているのだ……。


今までよりもここから

ともあれ、幼少期を振り返ると自分も親に甘えていなかったし、むしろ途中から甘えるのを恥じる性格になった記憶すらある。断片的な記憶しかないゆえに判断は難しいのだが、赤子の頃から手がかからない子だったらしい。
もしかすると妙に鋭いところがあったのかもしれないし、そこから何らかの否定的なメッセージを受信してしまったのかもしれない、と思うようには最近なった。

と、まあ長々語ってしまった。語ってしまったが、今の自分にはこの言語化行為が必要だと思うのでよしとする。今更原因を呪った所で始まらないし、今後物書きを目指すのならその物書きの中で信じられる人や参考にできる人を見つけていけばいい話だ。そこまで信頼できる人が生まれるかどうかは、自分が自分を信じられるかにもかかっているだろう。


ごあいさつ

昨日から、『毎日書いて【みようとする】』という行為をはじめました。
私はクソ真面目な部類です。自分のことなのに、面白おかしく綴る、という行為ができません。
私は私の身に起こったことを事細かに書けません。まだそこまでの勇気がありません。
それでも、私は。日々の思いを綴っていけたら、と思っています。
どうか、よろしく。全てのPVと『スキ!』に感謝を込めて。

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