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そら(こんなにまだらじゃ)そう(自己信頼もできない)よ【6/23:再編集】

世には『信頼』という言葉があります。『この人がやるならついていこう』、『この人が言うなら聞いてみよう』。そういう奴です。

で、自分は悲しいことにこの部分において圧倒的な不信感を抱かれているのですが、どういうわけか自分自身でも自己不信が大いにあるんですね。
で、なぜかと考えてみた訳なんですよ。すると。


10個のミッション(比較的一般かつ酷く苦手でもない限り出来るものとする)に対してのイメージ

一般の方 ○○○−○○○○○− (本当に出来ないことは依頼したりとかする)
 自分  ○✕○○✕○○✕○✕  (出来ないことでも断れなかったりそれが他に影響したり)

自己イメージですけど、これはひどい。
「簡単な筈なのに」とか「無能と思われたくない」とかあったけど、これじゃ自分を信頼なんて出来ません。だって他人がこうだったら。間違いなく依頼をしません。出来ません。つまり『そら(自分でこうなら)そう(他人もそうだ)よ』です。

世間には自己肯定とかそういう言葉がございますが、果たして『自分でも無能とジャッジしちゃうような事柄』ができない自分を『それでもいい』と納得させられるのかと言いますと。ある意味かぐや姫の難題クラスなのではないでしょうか。そもそもジャッジしちゃうクセ自体も変えていくほうがいいようです。

逆に言えば全部できない前提にひっくり返してしまうと『6つ出来てる凄い! 俺やれる!』と、自信にもできてしまうので考え方次第といえばそれまでの話ですけど。

ただ、昨日も述べたようにですね。学業で優等生だったりしますと。『前提を下げる、自分を無能と考える』のが大変難しくなると思うのです。

出来ると出来ないがまだら模様で。一つ一つは楽にできても三つ四つと重なるとどれが先か分からなくなって。それが元になってやり切れず、評価と信用を地に落とす。『できるはず』と思っているから頼むこともできない。

オマケに『出来ないこと』が一般的には誰でも出来るとされていることだったりすると、評価の下落は更に加速する。社会って大体がそういう場所ですから、難しいものです。

ついでにレールを外した奴、外れた奴に手厳しい。最近は若い層ではそうでも無くなってきたようですけど。まだまだ一般社会では上位層が高年齢ですので、常識外、という処理にはなるんですよね……。


今の私もそうですが、こういう側面があって困っている方。自分の得意なこと、何度折られても立ち上がれることで趣味を持っておくことをおすすめしたいです、ホントに。
根本的な対策とか、治療とか、診断とかはともかく、心だけは守られますから。心が折れて何年も戦えなくなるのは、現社会ではまだまだ痛恨の極みです。
またまた棚上げですが、それでも。この文が引っ掛かる方に幸があれと祈っております。

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