『一人がいい』という思いから自分を推理する

それはふとしたことから始まった

人を誘えると生き方が増える、という話を見た。が、正直一人の方が楽過ぎて辛い。気兼ねなくモノは食べられるし、誰にも否定されないし自分のペースで行動できる。
ちょっと前に私の好きな時間でもあげたのだが、どうも私は他人の干渉というのが非常に嫌いらしい。少なくとも個人行動中に誰かとバッタリ、というのはやはり緊張するし、正直面倒だし嫌である。
結局私は、今でも人を信じていないのだろう。自分に落ち度があれば抱え込み、必死に隠し、なんとかしてしまおうとする。助けを求めた時に責められるのが怖い。怖すぎる。そんな思いをするくらいなら自分でやってしまったほうがマシ。そんな思いの中で生き続けているのだ。

かなり思いが溢れてしまったが、別段、孤独至上主義者ではないつもりだ。ただ、自分の生き方、自分が疲れない生き方。それがあまりにもあんまりなところがあり、そこを突かれるともう頭を下げるしかできないのだ(自己肯定感のなさもあるのだろうが、やはりどこかで『世間一般』という言葉が刺さるのだろう)。

そうして、はい、はい、と。不本意にも頭を下げながら。少しでも改善しようとした部分はないわけではない。その中には私の落ち度、常識の無さによる部分もあるからだ。ただし、義務感や自己犠牲的な忠誠心によって従い続けて来た部分は間違いなくある。

自分が疲れない生き方、というのは現状一人、にあると個人では思っている。ただし、私は私がどこでどのように活動するのが。私自身をより強くあらしめるのかを未だに理解できていない。
要するに、自分が100%の力を発揮できる環境というものを。自分ですら掴めていないという酷さの極みである。

……。日々思考にとらわれて本音も言い切れず、自分の力の発揮法も分かっていない。これは酷い自己分析だ。だがきっと。ここから始めなければならない。否。ここから始めて、どこかにあるゴールを目指すべきなのだろう。ベキ論も本来はよくないが、此処までしないと怠ける自分がいるので怖いのだ。


追記:私は推察する

こういう恥の話を持ち出すことを私は恐れているのだが、小中高と私は陰に陽にスクールカーストの底側であることを押し付けられていた。いじめられていた時期もある。財布の中身が人様の懐に消えた時期もある。
人と違った興味の方向性と癖(悪癖も含む)を持ち、他人との違いを恐れて隠していたことも多かった私は、それ故に己の立場に抵抗心を持たなかった。いや、持てなかったのかもしれない。


その根幹はどこにあったのか。家庭環境だったのかもしれない。虐待はなかったが、私の方をきちんと見ていてくれたのか、と問うならば。それに関して私は頷くことはできなかった。要求を拒絶されたり、ちょっと不器用なだけで文句を言われたり。小間使いにされたり。外での扱いに心を枯らして帰ってきたのに、励ましてくれるどころか『立ち向かえ』と言われたり。現在でも家なのに、疲れているのに、ぐったり出来ないことは多々ある。
そういった、非常に地味で、細々しい数々の事実が。幼い私に『味方は居ない』『誰かを信じても得しない』『変わり者だから皆と合わせなくちゃ、隠さなくちゃ』と思わせていたのかもしれない。もっとも、今となってはそれを分かる術など持っていないのだが。

ともあれ。私が私を突き詰めるこの書物は、まだ暫く続けてもいいのかもしれない。その先に、何かがある、何もないにも関わらず。である

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南雲麗

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