見出し画像

聖なる樹 ィイ・ヤシロ・チ②

良い神社には必ず素敵な樹(の杜)が在る。その出会いも、お社巡りの楽しみのひとつ。

ご神木は楠や杉、公孫樹が多い。ヤマモモのご神木が木の神さまのお社の社務所の前に枝を大きく広げていたのを、珍しく思ったこともあった。

本殿を護る避雷針となって落雷に撃たれたり、大風に倒れることも時にはあるが、樹齢何百年、千年と気の遠くなる月日をその場所で重ね、何世代もの人の子の往来を見守り続けてくれた頼もしい長老のようでもある。

他よりもとび抜けて高く聳える大樹は、神さまや龍神が降臨する目標(めじるし)の役割を担い、龍燈という言葉を冠して呼ばれることも。

大抵は大きく美しく立派な樹形をもち、その体躯にはいくつものほかの生物、例えば宿り木、苔、羊歯などを養っていることも多い。ときには、鳥や小動物が巣を営む事例も聞いたことがある。懐の深い肝っ玉母さんみたいである。

そういえば、幹が異様に膨らんでその中に赤ん坊を育んでいるかのようなご神木もいくつか見かけてきた。伊勢の伊雑宮には巾着楠と名付けられ、財運アップと、もてはやされているご神木が有名だ。

そのほかにも、大人が悠々入れるほどの大きな洞をもっている大木にも数々出会った。その中にすっぽりと躰を収めてみると、まるで子宮の中にいるような安堵感に包まれた。そして其処から出てくるときは、文字通り再生(生まれ直し・リボーン)の疑似体験となる。階段まで樹内に設えている那智大社の大楠もその一つである。

神社によっては「触ってご利益を受けてください」という案内もあったりすると、多くの無邪気な人々が手を当て、ときには抱きついて、それぞれの祈願をする光景も出来する。確かに、枯れず・折れず・燃えずに今まで長生きしてきた大樹は、長寿、幸運というキーワードを自然と思い浮かばせる。その力強い生命力にあやかりたいと人の子たちは、心から願うのである。

画像1

わたくしは、ご神木の前に立って気が向くと、見上げて写真を撮らせていただくことがある。時には、まるで曼陀羅のような美しい光線が映りこむことがある。ゴーストという現象だとか、カメラの性能だと聞く。珍しくもないのかもしれないけれど、たまたま出会ったタイミングに、鮮やかな光線が可視化され、大樹から溢れる何とも言えない心地よい波動を体感すると、わたくしは、目に見えないけれど確かにある神々しい何かしらの力の徴のように思われる。

さて、ご神木である。なぜに人はご神木に惹かれるのだろう?人間には共通して「世界樹」なるイメージがあるらしい。wikiでは、

世界樹(せかいじゅ、World tree)とは、インド・ヨーロッパ、シベリア、ネイティブアメリカンなどの宗教や神話に登場する、世界が一本の大樹で成り立っているという概念、モチーフ。 世界樹は天を支え、天界と地上、さらに根や幹を通して地下世界もしくは冥界に通じているという。

さらには、こんな記述もある。↓

一部の学者は、進化生物学の観点から、世界樹という概念が人類の思考の中に元から備わっている可能性を指摘している。というのも、人類の祖先は約6000万年にわたり樹上で生活しており、その時代の彼らにとっては木々こそが世界のすべてであったと考えられるからである。そのため、この世界は巨大な木で出来ているのだという集合的無意識が、現在の我々に至るまで残っているのだというものである

人が他の動物と画するポイントは、火と言葉と道具の使用だとたしか中学で習った。火山か落雷による火が、最初の人との邂逅だったろう。燃える木は、温かさや明るさ、獣から守る、調理をするなど多くの恩恵をもたらしてくれる。人が火を自在に操るためには木の存在が不可欠であり、木は人間がこの地球に生きる為に用意された、完璧なマテリアルだ。特に日本は森の国。生命を産み育てる宇宙規模の循環の妙を感じて、人の子はより一層大樹に引き寄せられるのかもしれない。

そして、もう一つ、木にまつわる驚くべき本のことをわたくしは思い出した。

『樹木たちの知られざる生活』

木々が互いにネットワークを構築してコミニュケーションを取り合っているという内容である。

https://www.hayakawabooks.com/n/n46eb10fe9e4b

なんと木も記憶や感情、感覚を持ち、互いを護る情報交換も芳香物質や電気信号などで行っていると。情報の仲介に菌類も加わるとも書かれている。つまり、今この瞬間も、地球全体であらゆる植物の連携が営々と実行中なのだ。

わたくしは、ご神木が発しているだろう言葉や想いは細かには分からない。それでも、その下に佇み馥郁とした香りを含む澄んだ空気や柔らかな木陰を与えられる喜びに感謝する時、わたくしの中に癒やしがもたらされるのを確認する。別の種族ではあっても、命どうしのつながりに互いを慈しむ慰めがあることが嬉しくありがたい。

その時、わたくしは、植物どうしがそうしているように、直接触れなくても、ご神木との間に命の交歓が可能だと確信する。

考えてみれば、既に多くの恵みを与えられているうえに、更に(多分ご神木には管轄外であろう)何某かの願望を頼もうと、その根っこ(脚であり養分を吸い上げる口でもある)を不用意に踏みつけたり、木肌を傷めるような行いをするのは、とんでもない見当違いではないか。

わたくしは、多くの人の子が聖なる樹との慎ましやかで心豊かな交信を行えるようになればいいと心から願う。

なぜならば、その時こそが、人と植物の祝福に満ちた共生の地球が実現する刻となるからだ。

種一つ葉っば一枚も作れない人間であること。当たり前の事実をもう一度思い出して、聖なる樹に向き合いたい。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?