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御用は なあに? イイ・ヤシロ・チ㉓

心身が重いと感じると、もう無性に聖処に赴きたくなる。

わたくしにとっての聖処とは、全身の感覚のリセットやクリーンナップといったところの、メンテナンス基地のような場所。決まったところは特にはなくて、その都度都度のアンテナが反応した先に向かう。

しかも、「行きたい処」ではなく「行く必要のある処」というニュアンスが強い。其処で何をするのか、何を見るのかも具体的には全く不定。たとえ自分の希望をいくら盛り込んだ計画を立てても、イヤシロチ巡りは終わってからでないと、ミッションだったかもわからない。ひどい時には5年ほど経ってから、突如パズルが出来上がったように、理由や意味の答え合わせが出てくることも。(自分が鈍いのか、アチラの計画が壮大・緻密で入念なせいか)

こんな話は、他人が聞くとおかしいと思われると重々承知のうえなのだけれど、要は、内容が具体的に知らされていないお使いに出される感覚に近い。そして、そのお駄賃のお土産が心身の浄化なのである。

以前、友人に教わった浅葉なつ著の「神様の御用人」(全10巻完結)というライトノベルを読んで、ああ、コレだと思った。人間の都合は基本優先順位が低くて、しかしミッション完了までは必ず不思議な守りがいただけて、イロイロ起こるが、結局万事うまくまとまり、楽しく嬉しい結末に導かれる。

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もちろん、小説の主人公には具体的なミッションが下されるので、大変だけれど、わかりやすくてやり通しやすいなあとちょっぴり羨ましい。何故なら、わたくしの場合は、小説のように指令書が届くこともなく、直接話すのでも聞こえるのでもわかるのでもなく、ただピンとくる現地に直接出向き、思いもよらない伸るか反るか体験の結果、やっとこさ終えた旅のあと資料などで振り返るうちに、召喚だったかも?レベルの奇天烈な感じである。

ここに至っては、余計なことは考えずに自分の身をイヤシロチに運ぼうと思う。行先に誰かや何かが待っている体験を重ねて、「喚ばれている」感覚ができてきた。

熊野市の産田神社では、次の目的地である花の窟神社へのタクシーを携帯で呼ぼうとしていたら、突然現れた自動車に乗ったご夫婦に頼まれて神籬の場所に案内した御礼にと、そのまま運んでいただけた。

そうして到着した花の窟神社では、三貴子を表す大きな〆縄を氏子の方々が綯う縄ない神事の真っ最中だった。こんな貴重な場面に偶然?遭遇できたあとは、参拝後直ぐにやってきたバスに乗れてギリギリ当日中に友人ともども帰宅できた。(あらゆる交通機関が本数の少ない熊野で、あわや足止めされる日曜の夕刻だった汗)

こんなミラクルとは別立てで、運んで下さる車中で笑顔の奥さんが「私たちは午前中丹倉神社に行ってきました。素晴らしかったですよ!次回どうぞお参りください。」と聞かされてしまった。(帰途に就くタイミングに、このようなto be continueが届くと、それは宿題というお約束)その時は聞いたこともなかったその神社は帰宅後、偶然図書館で手に取った宗教人類学者植島啓司氏の著書 ↓の中に紹介されており、「こうなると無視できない」と観念。

https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-720639-5&mode=1

数年後、友人たちとお参りしたそのイヤシロチで、素晴らしい陽光に迎えられ、綺麗なご神気浴となった。この本の聖地案内は、とても素晴らしく、学術的な視点からの解説がわたくしには大そうありがたい。ファンタジーよりもフィールドワークとして本来の歴史(ホントウノコト)を考察したいと願うようになったから。もしかすると、それが「御用」かもしれない。

さて、ご褒美の生命力の賦活化は、実感としてスゴイ。仕組みは全く分からないが、とにかく調子が良くなる。ひどい肩痛に長く悩まされていた時期にイヤシロチに赴くと、かなり楽になるのは気のせいと言われればそれまでだけれど、体感は間違いなかった。帰宅後ひと月ほどは厳しくない程度に緩和・キープできてありがたかった。色々調べてチャレンジした様々な治療はほとんど効かず、イヤシロチ巡りだけが効果を感じられる保養旅である。

立地が磁場的に良好で、緑が深く森林浴となり、空気がすこぶるおいしく呼吸が深くできる。滝や湧き水があって水質もよく、手水でその清浄さに触れるだけでも気分が上がる。何故だか参拝時に日光がスポットライトのように当たるなど美しい光景を目撃できて、神楽や祝詞や珍しいお祭りが目前で始まることで音を通じてのチューンナップをしてもらえている気分になる。神前のお祈りの時には何故だか他に参拝者が居なくなるのもよくある。

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とまあ、こんな感じで、全身の感覚器をリフレッシュしながらゆったり心静かに境内をお参りして回ると、境内図にのせられていない小さめのお社を見つけることも。其処のお名前を確認してご挨拶をすると、より一層具合がいい。かつては此処の神様として祀られていたのかしら?とふと思ったり。聖処では端っこや裏手、入口に祀られているお社こそ丁寧に回るのがお決まりになっている。

最後は、同行者とその土地の食べ物を頂く直会で総仕上げ。出発前とは別人のようにスッキリした心身で帰途につける。

何の御用か全くわからない。果たせたのかどうかも、そもそも御用があるなんてのも妄想だろうと自戒する。人の仔は自分の好きな物語を作る能力に長けているから。無数の物語がこれまでも作られて、それを本当と信じて、さらにそこからまた新しい物語が無数に作られていくだろう。

ただ、楽しくたわいのない夢ならたくさんあって良いのだけれど、そうとは思わせず人間同士を争わせ、苦しませる意図で、不安と激情と「正義という名目」を与える悪夢はいただけない。聖処に坐ます存在は、わたくしたちに注意を促そうとされている、と感じるこの頃だ。

人の仔同士で無用な争いをしないように、この国では水も緑も山も海も与えられているのだから。それらの宝を清浄に大切に保ち、皆でなかよく分け合えば、十分に行き渡るようになっている。聖処を巡っているうちに気が付いた(のか気づかされたのか)ことだ。けんかは両成敗、よくわかりもしない他所の争いに頭を突っ込んで裁いたりせず、大事な平和を損なわぬよう、この国の神様はハラハラしてわたくしたちを見守ってくださっている気がしてならない。

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最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。










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