知性

男は人間の知性が下がっていることを憂いていた。本当に人間の知性が下がっているのかどうかはわからない。しかし、最近起こっている様々な事件を見聞するとそう考えざるを得ないのではないかと感じていた。そして、そのことに暗い気持ちになっていた。そういう事態はきっと今に始まったことではないのだ。しかし、最近は特に酷い。そこには対話がなかった。徹底的に自我というもののぶつかり合いしかなく、どこまで行ってもそこが交じり合わない。弱い立場にある人が声を挙げるそういう事象があることは少なくとも以前から比べると大きな飛躍であるような気もした。明るい兆候である。これまでの夜の時代を通り抜けて僅かではあるけれど光が見えたようなそんな状況である。そうやって少しずついろいろなことを解決していくしかないのだろう。神という超越的な存在が仮にいるとするならば、そんな神の視点からすればすべての物事はどれもほんの些細なことなのかもしれない。しかし、私は人間であり、人間の視点ではすべてのことはやはりとても重大なことであり、その一つ一つに敏感に反応をしているととても心が疲れてしまうのだけれど、やはり、反応してしまうのである。そして暗くなったり、少し喜んだり、そしてまた絶望的な気分になったり、その繰り返しなのである。これらの上下運動をやはり神のように少し離れた視点で見るととても喜劇的なのかもしれない。悲劇も引いてみると喜劇であるとはかの有名な喜劇俳優の言葉だけれど人間存在を捉えた言葉として印象的だ。泣いている人もどこか間の抜けた滑稽な感じがするのは否めない。先日も近所の銭湯に行った時に、自転車に乗った女性が声を上げて泣いている場面に出くわした。その女性は顔を崩し、少し低い声で「うわーん」と泣いていた。泣いている人と出会うということはあまりないので、出会った瞬間に身構え、何が起こったのかと事態を把握することが出来ずたじろいでしまった。そして、彼女が通り過ぎた後も事情は一向にわからなかったけれど、彼女に何か悲しいことが起こり、泣くということでその感情を放出し、消化しようとしているのだというぐらいにしか、私にはわからなかった。彼女に声をかけようかとも思ったけれど、もし自分が彼女の立場であれば、どうしてほしいか、考えてみたけれど、判然としなかった。私は人前であんなに大っぴらに泣いたことはなかったな、とその時考え、私の場合はもっとシクシクという感じで、涙を堪えようとしてそれでも泣いてしまうということが多かったことに思い当たった。それから、そう言えば、私は最近泣いていないことに思い当たった。泣くほどつらいことがなかったのかもしれない。しかし、そうではなく、泣きたいような時ももちろん時にはある。しかし、私は普段、主に自分の感情をこなしていく際に、泣くという回路ではなく、不満を吐き出すことによって感情を流しているのではないかと考えた。言葉にして、色々と話していくと、自然と状況分析的になる。そして、それに対してどのように対処すれば良いのかということも考えるような方向に向かっていくのだ。

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