男と女

女は男に尋ねた。なぜあなたは料理をするのかと。女は彼女の友達と話していてその男は、女が料理をし、男が仕事に行く、それが当然だという考え方とは違う家庭で育ったのだろう、だからその男は、男が料理をするということに抵抗がないのだろう。そう話されたと話していた。しかし、女は少し考えて、それは違うだろうと思った。なぜならその男の母は料理をし、その男の父は仕事に行っていたからである。そして、それが当然だとは思っていなかったとしても、それは違うということを強調するようなこともなかった。だからそういう環境が彼をそうさせたとは言い切れないと思ったのだ。そして、さらに女はそのことについて考え、環境でなければ何が彼をそうさせたのか、と考えた結果、それは教育なのではないか、と思った。そして、やはり、性差についてそしてそれに伴う差別について、彼は教育によりいろいろなことを考えたのだろうと結論した。そういうことを女は男に話すと、男は少し考え、女の考えに同意した。そして、さらに加えた。僕は料理がしたかったんだと思う。僕の幼いころの原体験として強烈に覚えていることがあって、それは、小学生高学年ぐらいだったと思うけれど、いや、中学年だっただろうか、そこのところははっきりしないけれど、やはり中学年ぐらいだっただろう。4年生か5年生ぐらいだったと思う。ある時、ぼくは団地に住んでいたんだけれど、母が団地の近くに住んでいる女の子2人を呼んで料理を教えてた。その時に僕は一緒に教えてほしかったけれど、恥ずかしくて言い出せなかった。その時なぜ恥ずかしかったのか、はっきりとはわからないけれど、なぜか、その時のぼくは、そういうことが恥ずかしいことであるかのように感じてしまったんだ。そして、一緒に料理をしたかったけれど、一緒にしたいとは言い出せず、それが挫折感として今も強く覚えているんだ。だから、ぼくは元々料理に興味があったんだろうね。とそういう話をした。その他にも、その時さらに続けていろいろなことを話したけれど、いちいち、それを伝えたいとは思わないから、そのことはまた別の機会を見つけて、その時に話そうと思う。いずれにせよ、こうやって、僕が今でも覚えている様々な過去の記憶をつなぎ合わせていくと、ぼくが今どういうことを考えていて、どういう生き方をしているかということとつながっているような気がして、また一方で、そういうこととは全く関係なく今があって、今の僕があるという考え方もふと頭をかすめるけれど、いずれにせよ、こうして、昔の僕の思考をたどっていくことはひそかな楽しみのような感じがした。それは今生きている足しになるのか、ならないのか、そういうことも全くわからず、ただの暇つぶしであるかのようにも思われるけれど、今はこういうことを綴っていることが何かにつながるのではないかと漠然と感じているので、そういうことを、気が済むまでそうしてみようと思っている。

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