クリエイティブ

男は銭湯の腰掛に置かれた雑誌を見た。表紙は男が以前気にかけていた美術展の作品だった。それは赤い糸が無数に張り巡らされた作品で、男はそれを初めて見た時、人間の血管を思い描いた。その時に印象的だった画面いっぱいの赤が思い出されたのだ。そしてその雑誌を一目見て同じものだと感じるぐらいにその作品の記憶は男の記憶の浅い場所に格納されていたことが確認された。その雑誌を手に取ると銭湯の女主人が声を掛けてきた。「私もその展覧会を見たかったんですけどね。」その主人は以前は都会に住んでいたのだ。テレビなどで展覧会のニュースを見て、気になったものがあればすぐに観に行けた、それが良かったと話した。同じような話を以前もどこかで聞いた覚えがある。その時も都会に住んでいる人が、そこに住んでいることの利点を話していた。男はその女主人の話に適当な相槌を打ちながら聞くともなしに聞きながら、ページを繰った。その雑誌はクリエイティビティを発揮し活躍している有名人を特集したものだった。その記事を読みながら男はクリエイティビティについて考えていた。そして自らの不満や梲が上がらない現状を思い悩んだ。テレビや雑誌などのメディアに取り上げられてちやほやされている人を見ると羨ましいという感情を抱かないではない。しかし、今はそういう単純な感情ではなく、様々な思いが胸に去来した。そう考えながら、今日の昼間に顔を合わせた隣のおじいさんの顔を思い出した。地球にはとても多くの人が生きている。それはもう想像もつかないぐらい途轍もない数の人々が生きている。そして、それぞれの人生が固有のものである。一人一人の人生の歴史があるのだ。そしてそれら一人一人の人生を比べることは出来ない。それは月並みな言葉で、平等であるとか、そういう言い方で表せない。そういう点から考えると、比較することは馬鹿げたことだとすぐに思い当たる。しかし、同じ国に生きて、同じ社会で生きて、という同じさにこだわると、あたかも同じ舞台で競争をしているかのような錯覚に陥るのである。頭ではわかっていても、感情では割り切れないのだ。一人一人が固有の生を生きているとするならば、私の人生は私一人の戦いの場であり、他の誰とも競合はしていないし、向き合い戦わなければならないのはただ私自身とだけなのである。そう考えた瞬間に、他者との競争は意味をなくし、ただ自分との戦いだけが残る。自らが自らの人生をどう生きたいのか。死ぬ時に悔いのない生を全うできるか、それだけが問題になる。孤独な戦いだ。先も見えない。何を頼りに生きていけばいいのかもわからない。ただ、今自分の人生に満足しているのか。もし満足していないならば、なぜなのか?どうしたいのか?自分はこの人生を通して何を追い求めるのか?そういうことは誰も教えてくれない。ただ自分に聞くしかないのだ、そう思った。


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