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台所解体、そして

この家を買ってもうすぐ21年経つ。途中5年ほど地方に住んでいる間は貸していた。「稼働」20年を超えたわけだ。少しずつのメンテナンスで済むはずのところ、オーブン一体型コンロを交換する際に欲が出た。自分の腰痛と、自分より10センチ以上背が高くなった子どもたちを理由に、台の高さを5センチ高くすることにした。85センチから90センチ。大した違いではない、とおっしゃる方は台所に長くいる機会がない方かもしれない。
昨日朝、職人さん到着後、まず吊戸棚が解体されていった。次に「台」、とにかく手早い。引き出しの引手をとる。引手のついていた板をとる。あいたプラスチックの引き出しにビスや接続金具が次々と放り込まれていく。吊戸棚の棚板がはずされる。ダボがはずされ、扉をつなぐ蝶番がはずされる(この蝶番がワンタッチではずれることを20年知らなかった)。板と、金具と、間のパッキンなどプラスチックが、それぞれの袋に分けられて、分別される。
そうなのだ。分別されて、ごみになる。当たり前のことに当日になってやっと気づく。わたしは今日かなり大量の産業廃棄物を生産していることになる。プラスチックの引き出し部分は20年経ったとはいえ、白く、新しいものに近い。流行りのSDGsの対極になるような行動に、わたしは(決して少なくもない)お金を払っているという事実に愕然とする。
棚の一部はそのまま使うとか、自分で塗り替えを試みるとか、なにか方法があったのではないかと今頃になって考えたりする。遅い。わたしは勧められた計画を最良のものと信じ(決してまるめこまれたのではない)、一新することを選んだのだ。
そう、選んだ。
そうこうしているうちに吊戸棚も、台所の作業台も、職人さんが壁との接続箇所にすーっとカッターをひいて、それからあっちとこっちで角を持つと「せーの」で、がぼっと壁からはがされた。実に簡単に家の壁に貼り付けてあることがわかる。そのまま使えるのではないか、などと思っているうちにがんがんと叩かれた棚はそれぞれの何面かの板になって重ねられていく。もう作業をやめてくださいなどと言えるタイミングはない。
かろうじて、階下に「ごみ」を運び出している若者に声をかけ、きれいな棚板を引き取ってもよいかと尋ねるのが精いっぱいだった。白い棚板と、小さ目の棚そのもの。だったら解体する前に言えばよかったではないか、と自分に突っ込みを入れながら、いや、これでいいのだ、わたしは選んだのだ、と何度も言い聞かせる。
ものや道具を新しくする。そのこと自体は嬉しいはずなのに、「これまで」のものたちと、うまく離れることができない。だからものがたまっていく。片付かない。わかっている。だから一新したし、これから中に収めるものは厳選していく・・・つもりだ。そう、つもりだ。
わずか2時間ちょっとで「わたしの台所」は板の間になった。

道具には心がある。そう信じている。
作業が始まる前、いつもは使わない三口コンロのうちのひとつが、ぼっと点火した。長らく不調でここだけ点火しなかったところだ。コンロ交換の理由のひとつでもあった。別れを惜しんでくれたみたいだ。ありがとう、と声に出して朝食の支度を終えた。一方で、まだ使えたはずの戸棚たちが解体されていくのを無言で見守った。矛盾する思いがわたしの中に同居する。
そのままとっておきたいと言えばよかったかな、と反省するわたしに、娘は言った。
「それじゃ家の中、あっちもこっちも台所になっちゃうよ。台所はひとつで十分」
まったくその通りだ。今日からの新しい台所を丁寧に扱い、心をつぎ込んでいく。言い訳かもしれないが、それでいい。そう思うことにする。

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