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書籍「ブッダという男」を読み始めたところ

「ブッダという男」という書籍が面白いという文言をどこかで見たので、試しに購入して、読み始めたところです。

この著者の清水さんが立派だなぁと思う点があります。
阿含宗開祖は、阿含経を本格的に学ぶためにはアビダルマを学ぶ必要があると述べています。アビダルマは大昔の僧侶たちがまとめた阿含経を学ぶための解説書、参考書であるため、阿含経で意味不明の用語があればアビダルマを参照して学び、そして阿含経に戻るということを繰り返す必要があるからです。

アビダルマや唯識なんて、口先だけの屁理屈を並べ立てて意味不明な机上の空論ばかりを言っているだけなんだから、そんなことに関わって人生を消費する暇があるならば、ボクはゲームをするわけです。

ところが、この書籍の著者である清水さんは、アビダルマも研究して書籍も出しているとのことですから、こういう人の阿含経(この書籍はパーリー文の方だけれども)を読み込んだ解説は楽しみです。

実際に、ちょっと立ち読みした時に、よくぞ、これをはっきりと書いてくれたなぁ、ありがたいなぁと思った部分がありました。
まぁ、阿含宗会員信徒の末端の無名の雑魚キャラに「ありがとう」と言われたところで著者の清水さんは嬉しいと思わないだろうけれども。

今の予定としては、この書籍と阿含宗の教義教学を比較して
・一致している所
・不一致のところ
を書いてみたいなあと思っています。

著者の清水さんの頑張りは素晴らしいなぁと思うのですが、第二章で早速、素晴らしくないところがあるので、まずは、そこを書いておきます。

たとえば、初期経典では、ブッダが悟りを得てから初めて唱えた言葉として次の2つの資料が残されていて、統一見解が取れていない。
-- 略 --
第1の詩の意味は、ブッダが菩提樹の下で縁起を覚知し、その結果、煩悩が断たれたということである。
そして、第2の詩の意味は、輪廻する心身を生み出す根源は渇望であるが、一切智者となったブッダには、輪廻する心身を構成する煩悩や無知が破壊されており、再び輪廻しようとする渇望もないというのである。
この2つの詩のうち、はたして、どちらの言葉をブッダは悟りを得たあとに唱えたのであろうか。おそらく、現代の読者の多くは批判的に仏典を読み、「齟齬をきたしている以上、どちらかが事実ではない、もしくはともに事実ではない可能性がある」と考えることになるだろう。

ブッダという男 P.24-26

統一見解が取れていない、齟齬をきたしていると言うけど、これ、ふたつとも同じことを言っているんですが・・・

大多数の人は、病苦、憎しみ、悲しみ、後悔といった従来の仏教説話の言葉で言えば未練や怨念を残して死にます。この未練や怨念とは初期経典の言葉で言えば「タンハー」と言って、漢訳阿含では「渇愛」と翻訳されており、著者の清水さんは「渇望」という言葉を使用しています。

この「タンハー・渇愛・渇望」は即ち悪因悪業であり、これが「心身を生み出す根源」である「因」となり、それに見合った悪因悪業「因」を持つ家庭と「縁」がつながって、その家の子供として生まれて、そして今に至るのが、今、このnoteを読んでいるあなたです。「因」があって「縁」が発生し、その「結果」として今に至り、周囲に影響を及ぼすという現象を「縁起」という。

「煩悩を断つ」とは「タンハー・渇愛・渇望」即ち悪因悪業を消滅させることです。
それを成し遂げると、この現実世界に生まれてくる原因、即ち「心身を生み出す根源」が消滅するので、この世界に生まれる「縁起」が発生しません。「縁起」が変わって、この世界に人として輪廻転生してこない状態になることがブッダになるということです。
こういう縁起の法則を覚知したわけです。

だから著者の清水さんの統一見解が取れていないという指摘は誤りです。
言葉は違うけれども同じことを言っています。同じと言えなくても、相互に深く結びついた補完し合う関係の内容を述べています。
ちゃんと教義教学を勉強して理解している阿含宗会員信徒にとっては、これは当たり前の基本知識であるし、これを理解できていないようなら修行の実践になりません。

著者の清水さんは、そんなことをわかっていて、敢えて「違うことが書かれているケースがあるんだぞ!」と言いたいがために、こういう風に書いているかもしれないし、もしかしたら仏教学者の世界では知識の横展開、横連携をして総合的に理解して説明してはいけないという「掟」があるのかもしれない。
それはボクにはわからない。
でも、この両論を並べて「齟齬をきたしている」と言われてしまうと、いやいや、これ同じことを言っていますよ、と反論したい。
まず最初に、ここは惜しいなぁと思いました。

こんな感じに、素晴らしいと思ったこと、違うと思ったことをいくつか書いていきたいなぁと思っているところです。

そして、もうひとつ気になる点があります。
それは「あとがき」や著者の清水さんのツイッターを見ていて感じたことなのですが、どうやら日本の仏教学者さんというのは人格的に問題がある人がとても多いらしい、ということ。
仏教は悪因悪業を断ち切る過程において、結果的に人格も磨かれていきますし、そのように努力することも修行です。しかしながら「あとがき」や著者の清水さんのツイッターから散見される罵り合いのような学者間のやり取りからは、日本の仏教学者さんたちの現状は、凡夫が落ちる地獄のひとつ、修羅界の様相を呈しています。
せっかく研究し、学んだことを、自分の人生に反映できていない。
昔の漢籍の言葉で言えば「論語読みの論語知らず」をそのまま体現してる。
修羅界に落ちて憎しみ合い、罵り合う仏教学者たちの語る仏教に説得力は出ないんじゃないの?大丈夫?

アビダルマ仏教では、こういう学者間の罵り合いがずっと続いて、そんなの民衆にとっては全く役に立たない不毛な出来事だから大衆部と呼ばれる人たちが大乗仏教を立ち上げたんだろうなということが、実感として、わかっちゃいますよね。

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