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【映画】『最後の1本 〜ペニス博物館の珍コレクション〜 』まさに珍作、こいつは1本取られた!
大自然に囲まれた北欧・アイスランドには、世界で唯一と言われる博物館が存在する。驚くことなかれ、それはなんと哺乳類のペニスだけをチン列した「ペニス博物館」なのだ。 豚、馬、羊、トナカイ、ホッキョクグマ、セイウチ、アザラシ、クジラ、シャチ、イルカ、キツネ、ミンク、ハツカネズミ、クマネズミ、ドブネズミ...。そこには、ありとあらゆる哺乳類のペニスが一堂に会す。 40年近くに渡って収集を続けてきたのは、元教師の経歴を持つシッギ館長。そんな彼にも、たった1つだけ手に入らないものがあった。それがホモ・サピエンス=人のペニス。その最後の1枠をめぐって、我こそはと2人の人物が名乗りを上げたところから話が始まる。 本作は1つの陳列スペースをめぐって繰り広げられる2本のペニス、そして3人の男の間に繰り広げられる数奇なやり取りを描き出したドキュメンタリーである。 1人目の男は、地元アイスランドの英雄的存在でもある95歳のパゥットル・アラソン氏。冒険家として名を馳せた彼は、数々の女性との浮名を流したご自慢のナニを差し出すことを申し出る。 もう1人の人物はアメリカに住む、中年カウボーイのトム・ミッチェル氏。己のナニに「エルモ」という愛称を付けるほど入れ込んだ彼は、立場が劣勢と見るや生きているうちにナニを差し出すことまで決意する。さらにはアメリカ国旗のタトゥーも入れ、国家的威信をかけて名乗りを上げた。 まさにあちらを立てれば、こちらが立たず。この悩ましき状況も、時間が経つにつれ地元の英雄アラソン氏が一歩リードしたかのように思えた。しかしアラソン氏にも、大きな壁が立ちはだかってしまう。それがアイスランドに古くから伝えられる「法的な長さ」問題であった。 アイスランドでは男性のナニには親指幅5本分のサイズが必要という言い伝えが残されており、その影響を受けたシッギ館長は最低でも12.7cmの長さを満たさないと陳列しないことを決めてしまうのだ。とはいえアラソン氏は95歳の高齢。加齢によりサイズの縮みも著しく、予断を許さない状況に。プライドを立てるのか、ナニを立てるのか。 一方でアメリカ代表のミッチェル氏も、思いが募るあまり不可解な行動をエスカレートさせていく。勃起した状態での陳列を希望し、陳列ケースへのこだわりも半端ない。さらには、ナニのコスプレ写真をこれでもかと送り続けて、館長のシッギを辟易させる。 全編を通して緊張感あふれるドキュメンタリータッチが続くが、ときおり思い出されるテーマそのものの存在が適度な緩和を生み出し、そこはかとなく可笑しい。そして意外な形で決着がついた後も、館長のシッギが繰り広げるシュールな光景からは目が離せないだろう。 集めたい男と、永久に保存されたい男をめぐる3つ巴の攻防。そのやり取りを通して、男達がペニスに何をシンボライズさせているのかが見えてくる。探究心、自尊心、プライド...。ホモ・サピエンスの威信をかけた「性器の一戦」をとくとご覧あれ! http://honz.jp/articles/-/42343
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映画『ヤクザと憲法』極道たりとも、法の下に平等なのか?
昨年の山口組分裂騒動を受け、多くのメディアを賑わせた極道の世界。その一方で、ヤクザの総数は今や全国で6万人を切ったとも言われる。もはや絶滅危惧種とも言われ、岐路に立たされるヤクザ達だが、その実態はどのようになっているのだろうか? 報道やフィクションでは目にすることの多いヤクザの世界を、地上波のドキュメンタリーという形で映し出したのが、本作『ヤクザと憲法』である。昨年3月に東海テレビで放送されたこの番組は、取材クルーが100日近く密着することでヤクザの日常を描き出した。現在、テレビでは未公開となったカットも追加したものが映画版として再編集されており、いくつかの劇場で見ることができる。 取材を受けたのは、大阪にある指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」である。27人の組員を束ねる親分は川口 和秀・会長。「暴力団対策法」制定のきっかけとなった「キャッツアイ事件」の際に殺人容疑などで逮捕されており、15年の実刑判決を受けたこともある。まるで役者かと思わせるようなイケメン親分だ。 一般的にメディアで描かれるヤクザの世界は、ヤクザ専門のスタッフによって手掛けられたものが多い。そこには取材する側とされる側との間に暗黙の了解があり、その文脈の理解が奥行きを出していく。だが本作では本来省かれるような前提条件も、そのまま映し出される。それを象徴するのが、冒頭に交わされる、こんなやり取りだ。 監督 :「拳銃はないんですか?」 ヤクザ:「テレビの見過ぎじゃないですか?」 だが取材を重ね、回したフィルムの総数は、確実に奥行きを出していく。ちなみに取材クルーがヤクザと決めた取り決めは以下の3つであったという。 ・取材謝礼金は支払わない ・収録テープ等を事前に見せない ・モザイクは原則かけない そして撮られる側の覚悟、これが本作の空気を支配する。良いカットを収めようなどという気負いは、撮る側からも撮られる側からも感じない。人もまばらな事務所、些細な出来事から始まる小競り合い、淡々と映し出される日常から浮き彫りにされるのは「欠落感」でしかない。 その欠落感のままに擬似家族を演じるヤクザ達の姿は、時にホームコメディーのような印象すら受ける。だが登場人物の一人が突然逮捕され、空気は一変するのだ。 そしてもう一人の主要な登場人物が、山口組の顧問弁護士を長らく務めてきた山之内 幸雄氏。任侠の周縁の位置する場所へも権力の手は伸びていき、やがては山之内氏も廃業へ追い込まれていく。 忘れられないシーンは、ラスト付近の川口会長の独白だ。全国の関係者から「暴力団排除条例」の影響を調べあげた内容を説明していくのだが、その一つ一つが衝撃である。子供が幼稚園に通えない、銀行口座が作れない。ヤクザであることを隠して口座をつくれば、詐欺で逮捕される。自動車保険の交渉がこじれると詐欺未遂で逮捕される。思わずこぼしたセリフが「これな、わしら人権ないんとちゃう?」 「脅威」を排除するためなら、法に触れたって構わない。それはヤクザの実態だけではなく、ヤクザが被っている実態でもある。相手が悪いヤツであったら、何をやっても許されるのか? 全ては自己責任なのか? 憲法9条ばかりに注目が集まる中、ヤクザの人権という独特な角度から憲法のあり方へフォーカスしていく様は壮観だ。 本作は決して、ヤクザを肯定する類のものではない。ただ、ヤクザを排除していくプロセスが、いささか性急過ぎたのではないかと疑問を投げかける。 被写体であるヤクザにとって何のメリットもないであろう、この取材を引き受けた事自体が、断末魔の叫びのようにも思えた。その叫びは、ヤクザだけのものなのだろうか、それとも社会全体のものなのだろうか。