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あの謝罪会見を芸能ニュースとして終わらせちゃいけない【エッセイ】

日曜に松本人志のワイドナショーを視聴したんだ。もう詳細な説明は不要だろうと思うんだけど、事の発端は土曜に行われた宮迫博之と田村亮の謝罪会見から始まっている。

私は、

田村亮が嗚咽をもらしながら『吉本が会社組織をファミリーの様なものだと言うなら僕は子だと思っています。謝ろうとする子を止める親がありますか。僕には不信感、、不信感しか』と発した瞬間、

そしてそんな田村亮をかばいながら、恨みつらみなくお金に関する事の経緯とそこから彼らの身に起こった会社との衝突を説明する宮迫博之の姿を見た時に、

ああ、これはもう一過性の芸能ニュースだけの枠には到底収まらないほどの大事になったのだと肌で感じた。

程なくしてtwitter上で松本人志が発信した。

後輩芸人達は不安よな。松本、動きます。

そりゃそうだよな。あれを見せられて黙っていられないよな。彼はここから吉本の上層部と掛け合ったのだろう。

やがて『ワイドナショー』の生特番が放送される旨のニュースが流れてきた。

そして7月21日の朝10時に放送が始まった。冒頭、松本人志は「このたびはまた浜田がやらかしまして、、」とボケるところから始まったが、私から見た彼の目は完全に覚悟した人間の目だった。

そりゃ謝罪会見をさせることさえ許可を出さなかったあの吉本という会社に対して、話をつけて翌日にテレビの生放送を実施するのだからただ事ではない。

場合によっては自身の進退さえもそこで決まってしまうだろう。でもそんな状況においても彼は静観しなかった。そういう人なんだと思う。

あの日、もし宮迫博之と田村亮が保身めいて腑抜けた謝罪会見を行なっていたなら、彼はここまで動かなかったと思うが、、

でもそうじゃなかった。後輩芸人が意を決して、確実に頭を下げた。言わなければならない事を発した。そしてそれがもとで、その彼らがいま現実にこのまま芸能界から消えようとしている。

もうたとえ話でもない。親としての会社が子としての芸人を叱るでもなく、ただ責め立て、言葉は悪いが世間の正義の名の下に見殺しにしているのである。その社としての姿勢はただ嵐が過ぎるのを待っていただけ。悲しいよね。

番組内で松本人志はここで彼らを見殺しにしてしまったならもう本当に笑うことは出来なくなってしまうと危惧していた。吉本が提供してきたお笑いという世界そのものを終わらしてしまうことになると。

ああ、その通りだと私も思った。確かに宮迫ら芸人が貰ったというお金は怪しい出処だったのだろう。でも人としてあんな悲しい無念の末路はないし、させちゃいけないと思う。

でも吉本という会社の空気は確実にそちら寄りになっている。悲しいかな一見、法令遵守の名のもと報いを受ける真っ当な会社になった様に見えるのだけれども、本質では中世の魔女裁判が形を変えて甦っているだけの様に感じた。

そしてそれは今の日本のどこにでも起こりえる、社会の縮図の様な光景として我々の目に映った。

思うんだ。

あれを冷笑できるようになった時、人は涙も同時に失うことになってしまうんじゃないかってね。泣くことができない人間は乾いた笑いしかできなくなる。それはホントの笑いではないんじゃないか。私は温かい涙を流してこそ、そこから機知に富んだ笑いが生まれるのだと信じている。

この持論に関しては青臭いと笑ってくれても構わない。

あの謝罪会見を見たあとの感想として、『もう彼らの芸を見ても笑うことはできないかもしれない。どうしてもあの姿が頭に浮かぶ。』と心配する人もいるだろう。

でも私は無用の心配だと思っている。それは彼らお笑い芸人が自ら吹き飛ばしてくれるはずだからだ。まぁ、もともと宮迫博之の芸は鼻に付くし嫌いな人も多いだろう。田村亮にいたっては田村淳の陰に隠れて面白いのか面白くないのか未だに分からないってのが実情だ。

でもそんな彼らも必要だからこそ、今まであの厳しい世界で生き延びてきたのである。芸が廃れて野垂れ死んだのであれば構わない。それは人の生き方であるから他人が口を出すべきではない。

ただあの様な末路で終わらすことが駄目だと言うだけなんだ。

あの終わり方は他の全てのお笑い芸人の心まで全て殺してしまう。それだけはなんとか避けてほしいと心より願う。

以上、たぶんこれが私が書く最初で最後の芸能ニュースに関した文章になると思います。
また日常系のほんわかした文章に戻ります。

またね。

#エッセイ #謝罪会見

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー