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そうか、君は二歳児だったのか【エッセイ】

私は、このnoteではよくエッセイを書いている。随筆だ。日々の暮らしの中で心に思い浮かんだことをみんなに見える形として残している。その中でも子育てに関することはよく書いていて、これは不特定多数に向けて書くというよりはいつか私の愛する子ども達に読んでほしいという思いを込めて書き残している。

未来へ届く手紙だと思っていた。
10年ないし20年先に子ども達が、父である私のnoteを見つけ出したならそれが手紙の到着点だ。『私達が子どもの時にパパはこんなことを想ってたんだね』とやり取りする日が来るかもしれない。もしも、子供たちが抱えている悩みがあったとして、その解決の道筋を私の文章から見い出してくれる日が来たら、それは何にも替えがたい宝になるんじゃないか。そう夢想していた。

でもそれが揺らぎ始めている。

それは4歳になる息子のことだ。今は一般の幼稚園に通わせている。
私のnoteを読んでくださっている方は少しご存知だと思うんだけど、彼は以前から言葉の発達が遅く、親としてはずっと気がかりだった。

でもきっと幼稚園に通いだせば変わるさ。

幼稚園に入って、同じ年頃のお友達と遊んでいたらだんだんと言葉が増えてゆくんじゃないか。…そう信じようとしていた。

たしかに語彙は増えた。けれど二語文よりも高度なおしゃべりを彼はほとんど扱えていない。自分の年齢も答えられない。自分の名前も伝えられない。まわりの園児たちとの差は開いてゆく一方になった。
甘えん坊な彼は幼稚園にゆくとずっと担任の先生にまとわりついている。まわりの園児たちと遊ばずに先生にかけ寄っていっては抱っことおんぶを要求するだけ。そういった光景が土曜日の送り迎えに行くたびにの目に入る。

たぶん遊ぼうにもまわりのお友達とレベルが合わないのだ。

みんなと同じことを長時間することができない。
先日のお誕生日会の時にはみんなが歌っている中、彼は舞台に立っていられずに、お友達の前で「おウチ、帰りたい」と泣いて舞台から飛び降りて教室の隅に逃げていってしまった。

あの子にとって今の幼稚園で過ごすことは果たして幸せなのだろうか?妻からもそういった問いを投げかけられることが多くなった。

ある日のこと、妻が息子に問いかけた。
お歌にのせて問いかけた。

メロディに乗せた問いかけの時だけ…彼は簡単な質問に答えてくれる。

「♫ママのこと、好き?」『すーき♪』

「♫お姉ちゃんのこと、好き?」『すーき♪』

「ねぇ♫幼稚園のこと、好き?」

ほんの少しの間の後

『 ─── きらい。』

彼はそう言った。

そうか、よく打ち明けてくれたね。

妻との相談で、発達支援を受けて、療育に希望を繋ごうという意志がかたまった。月に数回、発達を促すためのプログラムに彼を預けることにした。

数日後、市のこども発達センターでまずは彼の発達がどの程度のレベルなのかを確認してもらった。
そこでテストを受けるのだけれど、とても親切に対応してもらった。
しかしそれは長時間集中することのできない息子にとっては長い長いテストだったと思う。項目が多く、結局ついには途中で息子が答えられなくなってしまい最後の問題までテストするには至らなかった。

だから正味のレベルまでは分からないテストになってしまったが、それでも答えは出てくる。

確認できたのは彼が二歳児の水準までしか成長にいたっていないという事実だった。

「そうか、君は二歳児だったのか。みんなについてゆくのはしんどいことだったね。」
帰り際、こども発達センター近くの公園で息子を遊ばせた。嬉々としてすべり台に登り、こちらに手を振る息子を見て、妻が涙をこぼした。

しばらくして息子は発達支援を受けるために療育に通い出した。

ある日のこと、お昼ごろに妻から画像付きでラインが届いた。
療育のあと、近所の公園を歩いていたら息子が『ドーナツの歌』を口ずさんだらしい。
歌をきいた妻が近くの石ころを指差し「もしかしたらあそこの石でドーナツ作れるかもよ」と言ったら、息子は二つドーナツを作ってくれたそうだ。

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上手にできたじゃないか。

そこには小石でできた輪っかが二つ並んでいた。

◇◇◇

私の心は揺らいでいる。

これからもこういったエピソードを少しずつ残していこうと思う。
…とは思うが、果たしてこれが誰のための文章なのかと問われれば、最近はよく分からなくなってきている。私自身のために書いている事実はもちろんあるが、将来一番読んでほしいと願っている息子はおそらく長い文章を読むのにきっと苦労するだろうからね。

どんなに想いを込めて文章を書いても、毎日顔を合わせている息子にすら届かないかもしれない。
それはなんとも言えず切ないことだ。

ゆらぐ。

なんで人は文章を書くのだろう。
誰か教えてほしい。

「エッセイとは事象と心象が交わるところに生まれるもの」と田中泰延さんは著書『読みたいことを、書けばいい』で語っている。
だとすれば、今日の私のエッセイはきっとにじんでいることだろう。

いつもと違って文字がにじんで見えるんだ。そんな日もある。

その後、息子は幼稚園の合間に週二回の療育に機嫌良く通っている。

初日は泣いたみたいだったけれども、思ったよりも居心地が良かったのかすぐに新しい環境に馴れてくれたと聞いている。ありがたいことだ。

「療育、たのしい?」と訊いたら、頼もしいことに息子は「たのしい」と答えてくれた。

一回り成長したように感じる。それと同時に何だか落ち着いてジッとしていられる時間も増えてきたように感じられた。気のせいかと思ったけれどもどうやらそうでもないらしい。

いい兆しが見られる。

すると幼稚園での生活もだんだんと順調良くなってきたのだろう。笑顔がさらに増えてきた。

試しに「幼稚園、好き?」って訊ねたら、、

今度はね、「好き───」と答えてくれたんだ。どうやら外の世界にも居場所ができたみたいだ。

2019年10月

◇◇◇追記◇◇◇

そして、あれから3年経った。
私はというと文章を書く頻度は減ったがいたって元気だ。時に絵を描いたりして過ごしている。

息子は小学校に通いだした。
あの息子が…である。相変わらず自分が何歳なのかも把握してないが、鉛筆を握れるようになった。筆圧は弱いが、糸ミミズが這うような文字が書けるようになった。練習帳のマス目の中にお手本に沿って文字を書けるようになった。それを私が目にしているということは彼が家で宿題をしているということだ。もうそれは信じられない光景だった。

一枚モノのプリントで出されたひらがな筆記の宿題をやり終えた時───
彼は「 ── ぜんぶ できたよ!」と報告してくれた。

よくできたじゃないか。

あの日とは違う文字のにじみを感じながら、今この追記を書き終えた。

2022年4月26日

#エッセイ #子育て

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー