どこにでも居た近所の面白いオジサンになる時がきた【日記】
数日前に循環式の流しそうめんシステムを組んだ話をしたが、おかげさまで沢山の反響があった。
その時は気候的にカラッカラに晴れていて喉が渇くほど暑かったのもあるだろうけど、”流しそうめん記事”は深津さんがピックアップしてくれたところからサーと拡がりはじめた。
途端にあれよあれよという間にPV数はあがり、
一週間後にはnote公式からちょっとしたトロフィーが出るほど多くの人に読まれたみたい。
しかも二日目にはグーグル検索で『流しそうめん ポンプ』と入力すれば1ページ目に表示されるようになった。ニッチな検索ワードとは言え普通なかなかこうはいかない。noteって本当にグーグル検索にも強くなったんだなって改めて実感したよ。
ありがたいことだ。
さて、今日はその続きなんだけど、週末にこの流しそうめんシステムをご近所さんに開放したんだ。流しそうめんパーティー。前もって計画したわけじゃなくて、自然とそうなったんだけどね、それが結果として地域活動になったっていうお話。
それは梅雨の合間にカラッと晴れた日曜日の朝のことだった。年一回の町内清掃を終えた私は、もう一度配管を組んで流しそうめん機を作り始めた。そうすると近所の子どもが寄ってきたのね。
いつの時代もそうだけど、子どもたちは好奇心旺盛なのだ。『またこのオジサン何かをし始めたな』ってなもんだろう。
私は声を掛けた。「これから流しそうめんをするんだ。食べにきなよ。」
「え!いいの?」と戸惑うその子に私は「いいからおいでよ。お母さんに言っといで。」とうながした。
その子は許可を取りに自宅に走った。すぐに戻ってくると笑顔でこちらを向いた。どうやらお許しは出たみたいだ。開口一番「ウチのお母さんもそうめん湯がいて今から持ってゆくよ」だってさ。
こうなると話は早い。電光石火で人は集まってくる。
準備の間の30分で子ども10名、大人6名。総勢16名の参加者が集まった。いやいくらなんでも早すぎるやろ。
心の中のツッコミがバシッと決まる中、流しそうめんパーティーは始まった。
赤いトマトがコロコロと転がる。白いそうめんがツルツルと流れる。
横一列でレーンを囲む子供たち。思ったよりも箸で流れるそうめんをキャッチするのはむずかしい。ゲラゲラ笑う。
下品な替え歌で盛り上がる。踊る。
シャボン玉を飛ばす。
タライの中に手を突っ込んでバチャバチャ遊ぶ。
もうどれが誰のお箸でどれが誰の御椀なのかも分からない。
衛生状態は褒められたものじゃないが、こどもが10人も集まるということはこういうことなのである。
循環する水が濁ったのならば、その都度交換してやればよいのだ。
◇◇◇
懐かしいな。
私が幼い頃、近所には面白いオジサンたちがいた。血もつながっていないどこぞのオジサン達が私たち子供を笑わせてくれたものである。あの時代は良かったなと日和っているわけではない。あの頃居た近所の面白いオジサンに我々令和に生きるオジサンがならなきゃいけないんだなと気付いたのである。
40歳になった今、そのお役目がまわってきたんだなと私は感じた。
私はnoteでボチボチと文章を書いているがそれは虚構だけの世界ではない。現実ともつながっているそんな本物の世界である。そりゃまぁ、ちょっとは嘘も混じっているし、真実が一部欠けていたりもするけれどもね。
でもね、嫌味な嘘はついていないつもりだ。それは信じてくれてもいいと思う。
そもそも人間というのは全てを語れないものだからね。そのとき切り取れる精一杯の言葉を発してゆくしかないんだ。そして言えなかった言葉をそれ以上に飲み込んで生きてゆく。
そんな言葉の一つ一つが人々の行動を、そして我々が生きるこの世界のどこかを変えてゆくのである。
そんなことを考えていたら深津さんのこんなnoteが目にとまった。そう。このシンプルさが大切なんだと思った。
自身の行動から生まれた良い情報を発信する。それだけが人の心を動かす唯一のシンプルな手順なのだ。
私もそう信じている。
#日記 #エッセイ #流しそうめん #note #令和元年にやりたいこと
日本中でこんなことをやるオジサンが増えればいいなと思う。
ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー