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追いかけっこ【エッセイ】

ちょうど五年くらい前だったと思う。ここに書かれていることと同じ様な思いに私もかられた。別に恋ということではなかったのだけれども、、

上の吉玉さんの文章はたまたま恋愛を切り口に話を展開されているが、読み続けていればもう一つのテーマに辿り着くことが分かる。

それは歳を経るごとに人生で手に入らないものの輪郭がくっきりと見えてしまう、そんな絶望感に似た虚しさみたいなもんへの言及。見えてしまった人が何とも言えない空虚な気持ちに苛まれるアレだ。

『35歳くらいの時にそう感じたな。』読んでいてそんな感覚を急に思い出した。思い出したということは忘れてたっていうことなんだけど、私の場合この絶望感はいずれ別の思いに取って代わられることになった。

40歳になった今は、まぁそれでも世間から見れば若輩者なんだけど、今度はだんだんと手に入れたものを手放してゆく機会が増えてきたなと感じるようになった。絶望感はやがて幸せ混じりの寂しさに押し流されていったんだ。

例えば今やっている仕事を別の人間に任せるとする。
すると今までそれは私が居なければ回らないと思っていた仕事だったのが実はそうでもなく、なんてことなく回ってゆく光景を目にするのである。

肩の荷が降りると同時に一抹の寂しさをおぼえた。

例えば今までずっと目が離せなかった我が子がある日自分の手を離れてしっかりと行動する姿を目にする。だんだんと手が掛からなくなる喜びと感動。

それと同時にあの独特の寂しさを知った。

その内に『幸せにしてもなんにしても手に入ったと感じるのは幻想で、本質的には一時だけ私の手を握ってくれていただけに過ぎない』と思うようになった。

この世のあらゆるものはすべからく循環している。こんなことを言ってる間にいずれ自分も消えてゆくんだろう。それが早いか遅いかは誰にもわからない。ただ生れ落ちた時からそれは始まっているのである。

それはもう消えゆくことをゴールとした追いかけっこみたいなもんなのかもしれない。

こういうことを書くとちょっぴりしんみりするね。
次は笑える話をしようかな。

またね。

#エッセイ #人生

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ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー