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小山富士夫氏 理想の作陶姿勢

小代焼中平窯の西川です(^^)

今回は陶磁器研究者・文部技官・陶芸家である小山富士夫氏についてご紹介します。





小山氏の経歴


小山氏は、なかなか波乱万丈な人生を送っていらっしゃいました。
ここでは簡単にまとめます。

若い頃は社会主義運動に共鳴し、労働者となるためカムチャツカ行きの蟹工船へ乗り込みます。
この時期の小山氏は腕っぷしが強く、腕相撲ではロシア人の大男も相手にならなかったという逸話があります。
また、生涯 酒を愛した人物でした。

その後は近衛連隊へ入隊し、その時期の同僚から焼き物の話を聞き、漠然と焼き物へ興味を持たれました。

除隊後は瀬戸や京都で焼き物の修業をされます。
最初は陶磁器学者ではなく、作り手を目指しておられたようです。


若い頃には
河井寛次郎氏に弟子入りを志願したり、生涯の友人となる石黒宗麿氏(後の人間国宝)と出会ったり、グループ展の小山氏作品を川喜田半泥子氏が買い上げたりと、昭和陶芸の重要人物達と至る所で接点を持たれています。
また、北大路魯山人氏との接点もあります。

弟子入りの件は結局 河井氏の断られたため、眞清水六蔵氏に弟子入りされましたが、そのことが却って小山氏にはプラスになったようです。


修業時代から熱心に調査研究をされており、
次第に陶磁器学者としての活動に軸足を移していかれます。
様々な出版物の執筆や監修を務められ、それらの活動から焼き物を通して世の中に貢献しようという小山氏の強い信念を感じます。


その後、次の章でご紹介する『永仁の壺事件』をきっかけに公職を辞し、本格的な作陶生活へと活動の場が移っていきます。



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永仁の壺事件


小山氏を語る際に『永仁の壺事件』は避けては通れないでしょう。

これは以前もご紹介した陶芸家・加藤唐九郎氏が関わった贋作事件です。


道路工事の際に出土した瓶子(壺)に「永仁二年」の刻銘があり、
文化財保護委員会の小山氏が中心となり、その瓶子(壺)を重要文化財に指定しました。

しかし、その瓶子(壺)について唐九郎氏の長男・岡部嶺男氏が「それは私が作った物である」と名乗り出て、一大スキャンダルとなりました。


重要文化財の指定は取り消され、瓶子(壺)を鑑定した小山氏は責任をとって全ての公職を辞することとなりました。

しかし、この事件をきっかけに陶芸家・小山富士夫が誕生したとも言えます。

小山氏は気ままにロクロを回していたとのこと。

私を含め職業で焼き物に携わっていますと
同じサイズで100個作るということがよくありますが、小山氏は茶碗を20個作ったら次は花入れを20個作り その形も自由自在といった様子だったそうです。

その作陶姿勢は半泥子氏にも通じます。


ちなみに悪者になってしまった加藤唐九郎氏ですが、悪意があって瓶子(壺)の贋作を作ったわけではないようです。
詳しくは唐九郎氏の著書『土と炎の迷路』を読んでいただけますと幸いです。


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作陶姿勢


息子さんである小山岺一氏によりますと、小山富士夫氏は
「自分が愉しんで作って、それが世の中に出て、少しでも残ってくれたらいいと考えていたと思います。」
という姿勢で作陶されていたようです。


本当に素晴らしい考え方です。
私もそうありたいものです。心からそう思います。


小山氏作 『粉引茶碗』


最後に


私は職業として焼き物に携わっておりますので同じことはできませんが、小山氏や半泥子氏のような軽やかな作陶姿勢に憧れがあります。

分かりやすいテクニカルな面は見られないのですが、
「焼き物が好きだから焼き物を作っているんだ!」という情熱を感じます。


感心と感動は違うというお話をとある方から聞きました。


技術がすごかったり時間を掛けていたりする作品を見ると
「へ~、凄いな~。頑張ったんだな~(^^)」
と思います。
これは感心です。

一方で、

技術も労力も大げさなものでは無いのに
「おぉ!なんだこれは? なんて素晴らしい作品だ!!」
と衝撃を受けることがあります。
これが感動です。


今の私には足りないことばかりですが、これからの人生で感動できる作品を1つでも作っていきたいものです。



炎芸術 85号 2006年




小山さんは自らを処すること冷厳だが、他人に対しては寛容である。

時にこの二つの交錯から作品が生まれる。

ー 石黒宗麿 (人間国宝・小山氏終生の友)




2023年8月25日(月) 西川智成

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