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「私」がいっぱい(パート1.5)【10】


【10】〈私〉そのものが剥き出しで持続する

 第3章の第1節で森岡氏は、自身の直観的な「違和感」の実質をよりクリアーに表現しようと試みます。
 いわく、「人物○○が〈私〉である」という命題は理解することができない。「〈私〉である」は、何か別の述語部分と入れ替わるような形で代入できるものではないからだ。〈私〉はそもそも命題の述語部分に置かれ得ない。それが、独在性の意味である。〈私〉はすべての可能性を唯一者として貫通して必ず主語の位置に入ってしまう。〈私〉の視点からすれば、現実世界に対比される可能世界など存立し得ない。これはそもそも可能世界の概念に対する疑義につながる。(125-126頁)
 これに応えて永井氏いわく、森岡の議論は理解できないが、言いたいことを忖度してみると、人物持続の諸条件(カント原理)とは無関係に、〈私〉がただそれだけで、剝き出しで持続できると考えているのではないか。しかし、それはいくらなんでも素朴すぎる見解だろう。(第4章「森岡論文への応答」第2節、228頁)

 話は前後しますが、いま引いた応酬の少し前で、永井氏は次のような議論を展開しています。
 いわく、〈私〉がいない世界と〈私〉がいる世界とは根源的に違う。この「単純なこと」を、言葉で説明するのは難しい。しかし、図で示すとほとんどの人が理解できるし、「存在論的に本質的なポイント」が直に伝わる。

 図1 …●▲◆■▼…
 図2 …●▲◆□▼…
 図3 …●△◆■▼…

 図1で、…●▲◆■▼…は人間(意識的存在者)を表現しており、図2では、人物■がなぜか〈私〉であるという事実が□によって表現されている。図1の「平板な世界」のあり方と、これと矛盾する「異様な世界」のあり方とが、図2で合体させられている。この二種の世界あるいは世界の二種の捉え方の対比こそが──「これほど根源的な違いがあるにもかかわらず、いかなる実在的[リアル]な差異もない」ということが──独在性という問題の哲学的本質である。(第4章第1節、214-215頁)
 この図を使っていえば、「人物▲が〈私〉である」世界とは、図2の□がいったん■(図1)にもどって、▲が(可能的にではなく「現実」に)△である世界(図3)を考えればよい。それは、図1と図2とを概念的に理解できた以上、必ず理解できるのでなけれなならない。(228頁)

 ──「〈私〉は人物○○である」は言えるが、「人物○○が〈私〉である」はそもそも言えない。この森岡氏の主張に対して、永井氏は「理解できない」と一刀両断です。
 ここまでのところ、私は永井氏の議論に説得されています。「人物○○が〈私〉である」は、「この丸は四角だ」とは違って、概念的に有意味に理解できるからです。そんなことよりも(失礼!)むしろ、永井氏が言うように、いかなる「実在」的差異もないのに、「現実」には、根源的に異なる世界が二つあることの方が、よほどスリリングな、“哲覚”を擽る問題だと思うからです。
 ただ、その一方で、森岡氏が言わんとしていることがとても気になるし、なぜか惹かれ(かけ)てもいるのです。カント以前に戻るのか、という批判を潜り抜けて、あらゆる可能世界を「貫通」して唯一存在する〈私〉を、森岡氏がいかにして造型し得るか、あるいはその試みは壮大な失敗に終わるのか。
 森岡氏は『生まれてこないほうが良かったのか?』の中で、渡辺恒夫氏が『輪廻転生を考える』で論じた「遍在転生観」──宇宙に存在するただ一人のこの私(独我論的な私)が、輪廻転生によって何度でも、時間軸を超えてこの世界に生まれてくるという転生観──に注目しています。生成途上の“森岡の独在論”の起点は、たぶんこのあたりにあると思います。

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