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文字的世界【33】

【33】漢字仮名交用をめぐって──柄谷文字論3

 柄谷文字論は、たとえば言文一致のように古代と近代、洋の東西を問わない“普遍”的な事象と、漢字仮名交用のように日本固有の“単独”性をもった事象とを峻別すること、そしてそれらの対を、非歴史的で“一般”的な事象(たとえば文法)とその特殊で“個別”な形態との関係と混同しないこと、この二点が、文字の分析にあたっての(あるいは柄谷行人の思考そのものの)方法的基軸となっています[*1]。

3.漢字仮名交用の問題─日本的なもの

◎日本では漢字と平仮名、カタカナを交ぜて書く二重三重の表記法が発展した。(三種類の文字を使って語(概念)の外来性を明確に区別している文字組織は、日本のほかには存在していない。)それはたんに制度や思想を文字によって表記するという技術的な事柄ではなく、むしろ表記法自体が一つの制度・思想としてあるのである。こうした文字の形態(漢字仮名交用という日本語のエクリチュール)が事実として一千年以上も存続してきていること、それが「日本人」の心理・思想の形態を規定し「日本的なもの」を形成してきた。

【文字(抽象的概念)の外来性】
◎文字は外から来る。──抽象的で外来的なもの(文字的抽象語)と大衆的で土着的なもの(音声的日常語)との二重性は日本に固有なものではない。輸入された概念が現実の生活と隔たったものであることは後進国ならばどこでも見られることである。逆に、隔たりがないことが抽象的概念の理解を妨げる。たとえば日本語の「わび」「さび」は日常語(わびしい、さびしい)とつながっているから日本人はそれらを「概念」だと思っていない。(哲学や数学は一種の外国語であると見なしたほうがいい。)

◎日本に固有なものは、(哲学言語と日常語との)隔たりがいつも文字表記において明示され分離されること、そして外来的なものがけっして内面化・内部化されないということである。それは漢字仮名交用という表記法と密接に関連している。十八世紀に賀茂真淵や本居宣長が意識したのはそのことである。

◎漢字・片仮名で表記されるとき、その語が外来語であるということがよくわかる[*2]。つまり漢字・片仮名で書かれると一定の価値(外来性)が生じる。同時に反発も生じ、日本語・大和言葉が意識される。外来語と大和言葉の区別は、実は漢字・片仮名で書くか平仮名で書くかという区別にすぎない。

【漢字仮名交用の歴史性】
◎漢字仮名交用は非常に「歴史的」な出来事(偶然)である。シンタックス・文法のような「非歴史的」な構造とは関係ない。

◎徂徠も宣長も漢字仮名交用という形態を純粋化しようとした。国学者は、漢字の部分は知的・道徳的あるいは理論的・概念的であるのに対して、仮名の部分は具体的で「情」的でありさらには本質的であると価値を逆転したのである。こういう傾向は特別に日本的なものではなく、ヨーロッパにおいてはロマン派としてあらわれている。そこでは、ヘルダーが典型的だが、言語を民族の精神的核として見いだしている。もし日本に独特なものがあるとしたら漢字・仮名の対立として表象されたことであり、それは漢字仮名交用が「歴史的」に存続してきたからである。

[*1]柄谷氏が『トランスクリティーク──カントとマルクス』で導入した「普遍性─単独性」(異なるシステム=共同体間の交換=コミュニケーションにかかわる社会的で無媒介・直接的な回路)と「一般性─個別性」(同一の規則をもったシステム=共同体間の交換=コミュニケーションにかかわる被媒介的な回路)という二組の概念を念頭においている。
 試しに、第30節の註で導入した図式と重ね合わせると次のようになる。──この図を使って、たとえば書き言葉(エクリチュール)によって現実化(アクチュアライズ)されるのが「ペルソナ」であり(文は人なり)、話し言葉(パロール)のうちに潜在するものが「クオリア」である、そして実在(リアリティ)の世界、経験の世界において、この「パロール/エクリチュール」の動態が水平方向に“反復”される、などといった議論ができるかもしれない。

        (書き言葉)
         単独性
          ┃
          ┃
          ┃
          ┃
 一般性━━━━━━╋━━━━━━個別性
(表意文字)    ┃    (表音文字)
          ┃
          ┃
          ┃
         普遍性
        (話し言葉)

[*2]「文字の地政学──日本精神分析」(『定本柄谷行人集4 ネーションと美学』)において、柄谷氏は、「漢字を訓で読むことは何を意味するか」という問いに対して次の二つの答えを与えている(228-229頁)。「第一に、それは外来的な漢字を内面化することである。日本人は、もはや漢字を訓で読んでいるとは考えず、たんに日本語を漢字で表現すると考えている。」「第二に、もっと重要なことは、訓読みによって、漢字は日本語の内部に吸収されながら、同時につねに外来的なものにとどまるということである。」
 訓読みに関して、ラカンは『エクリ』の日本語版序文に「音読みは訓読みを注釈する」云々と綴った。このよく知られた一節をめぐる柄谷氏の議論を(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第78章から)自己引用する。

 ……柄谷行人氏は、講演録「日本精神分析再考」(ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』)でラカンのこの文章を引いて、「実のところ、私は、これが何を意味するのか、いまだにわかりません」と書いています。「ただ、私はかつてこう考えたのです。日本人は漢字を受け入れたときに、それを訓で読んだ。つまり自国の音声で読んだわけです。その結果、自分の音声を漢字を使いながら表現するようになる。これはありふれたことのようですが、実はそうではないんですよ。」(80頁)
 ここで「かつて」と言われているのは、「日本精神分析再考」(2008年)のほぼ二十年前(1991年頃)に書かれた論文「文字の地政学──日本精神分析」を念頭においた発言で、そこで柄谷氏は次のように書いていました。

《音読みは訓読みを注釈するのに十分だとは、何を意味するのか。それは、日本語の音声は、ただちに漢字の形態に変えることができるということである。いいかえれば、音声とは別に、それを漢字で表示して意味を知ることができる。ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が蝕知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させている──真実を語っている──からである。》(『定本 柄谷行人集4』232頁)

 柄谷氏の解釈は、「音読み=文字(漢字)」が「訓読み=声(やまとことば)」を注釈する(翻訳する、通訳する、解釈する)ということです。ここで私は、ちょうど読み終えたばかりの辻邦生著『西行花伝』に、「森羅万象[いきとしいけるもの]」や「存在[あるまま]」といった独特のルビを振った漢字が使われていたことを想起しています。このほかにも、任意に開いた頁から拾うと、理想[のぞみ]、連帯[むすびつき]、所管事項[なすべきこと]、倫理規範[いきかた]、影響[かげのちから]等々。
 漢字(象形文字)とルビの関係は「マンガの絵とフキダシ」の関係である(養老孟司)とか、少女マンガのフキダシは「心の中の声」や「無意識の声」まで語っている(内田樹)といった議論をここに持ち込むと面白いと思いますが、私が気になっているのは、音読み(シンラバンショウ)も訓読み(いきとしいけるもの)も共に「読み」であること、すなわち音声を対象にしていると捉えるのが素直なのではないかということです。
 また、「ムソオシンニョ」すなわち能における「音と動きの流れに添って謡われる歌、…歌というより、むしろ一種の呪術的な祈りのことば」をめぐる観世寿夫の議論(「無相真如」,『観世寿夫 世阿弥を読む』)にあっては、文字(漢字)ではない、字義通りの「音(読み)」がマテリアルなかたちで露出しています。
 あるいは、「音読み=文字(漢字)」に対する「訓読み=文字(かな)」を考えるることもできるはずです。山城むつみ氏は「文学のプログラム」で、次のように書いています。

《…日本語においては、〈訓読みによる音読みの注釈〉と〈音読みによる訓読みの注釈〉と両方の可能性があるにもかかわらず、ラカンが特に後者に注目したのはなぜだろうか。と問うことで気になってくるのは、音読みにより訓読みを注釈するという場合、この注釈において隠れた核となっているのが文字の機能だということである。「よむ」という音声の下には外来の文字(読、詠、数、節、誦、訓などの漢字)の力が働いている。だからこそ「音読みは訓読みを注釈するのに十分」たりうる。端的に言えば、音読みにより訓読みを注釈するということが可能なのは、日本語が中国語から文字を借用しているからである。〈音読みによる訓読みの注釈〉にラカンがとりわけ注目したのは、そこに外来の文字の機能が含まれているからなのである。「本当に‘語る’人間のためには……」「……を‘話す’などという幸運」など、ラカンはもっぱら音声言語に注目しているように見える。だが、より接近して‘読む’ならば、すなわち聞くだけで流しさえしなければ、彼が発見しているのは、実はむしろ、日本語の話し言葉[パロール]の内部における文字[エクリ]の機能の方であることがわかる。》(講談社文芸文庫『文学のプログラム』180-181頁)

 山城氏の議論、すなわち「音声(パロール)の下の文字(エクリ)」という解釈は、柄谷氏のそれに通じています。そのことを確認したうえで、あえて誤読をして、次のように言っておきたいと思います。すなわち、山城氏が言う「音声」(=日本語の話し言葉)とは、実は、中国語から借用した日本語の文字としての「かな」(偽装された日本語音)のことであり、したがって、ラカンがもっぱら注目したのは、「文字(かな)の下の文字(漢字)」すなわち「表音文字の下の表意文字」であったと解釈することが可能なのだと。……

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