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ペルソナ的世界【3】

【3】万物ことごとくが神であったころ─クオリアとペルソナ・続

 前回、呈示した「クオリア=ペルソナ」なる“奇怪”な概念について、私には、ある確たるイメージがあります。確たるといっても、それは例によって、先賢の肩の上に立ち眺め見てこそのことです。福田恆存訳、D・H・ロレンス著『黙示録論』第9章の冒頭に、その一文は綴られていました。

 かつて、中公文庫版(『現代人は愛しうるか』のタイトルで1982年刊行)でこの訳書を入手し、なにか途方もなく深甚な思想が、これ以上は望めない達意の日本語訳文で綴られているのに接し、大袈裟に言えば生涯をかけてこの書物の解読を試みることになるのではないか、と思いこむまでの感銘を受けました。
 なかでも、以下ほぼ全文を引用する次の個所は、書かれている内容よりはむしろ、その文体や(句読点の打ち方を含めた)語り口がもつリズムと響きが、ほぼ半世紀後の今なお脳髄のどこか奥深いところで反響しているほどのインパクトをもっていました。

《さて、アポカリプスの問題に戻るに際して、吾々はあくまでつぎの事実を銘記しておかねばならぬ。アポカリプスは、その展開の仕方においてやはり古代異教文明の産物の一つであり、したがって、そのうちに吾々の眺めるものは、例の近代の連鎖進行思考法ではなく、古代異教の回転式形象思考であるということである。(略)
 吾々がくれぐれもこころにとどめておかねばならぬことは、古代人の意識の方法は、ことごとに【なにかが起るのを目のあたり見ねばやまぬ】ということである。万物ことごとく具象であり、世に抽象物など存在しないのだ。しかも森羅万象かならずなにごとかを行うのである。
 古代の意識にとっては、‘素材’、‘物質’、いわゆる‘実体あるもの’は、すべて‘神’であった。大きな岩は‘神’である。池水も‘神’である。いや、なぜそうでないと言えようか。吾々はこの世に齢を閲すれば閲するほど、ありとあるヴィジョンのうちその最古のものへと還って行く。大きな岩は‘神’なのである。私はそれに触れることが出来るのだ。それは否定しえないものである。どうして‘神’でないといえようか。
 かくして動くものは二重の意味に於いて‘神’となる。すなわち、吾々はその神性を二重に知覚する、存在するところのものとして、かつ運動するところのものとして、二つの神性を。森羅万象はすべて《もの》であり、またあらゆる《もの》は行動し、その結果を生む。したがって、宇宙は存在し運動し結果を生むものの複雑な一大活動である。そしてこれら全体はとりもなおさず‘神’なのだ。
 今日の吾々には、あの古代ギリシア人たちが神、すなわち【テオス】という言葉によって何を意味していたか、ほとんど測り知ることが出来ない。万物ことごとくが【テオス】であった。それにしても、それら全部が同時にテオスであったというわけではない。ある瞬間、【なにかがこころを打って】きたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ。もしそれが湖沼の水であるとき、その湛々たる湖沼が深く【こころを打って】こよう、そうしたらそれが神となるのだ。あるいは青色の閃光が突如として意識をとらえることがあるかも知れない、そうしたらそれが神となるのだ。ときには夕暮れに地上から立のぼるかすかなかげろうが吾々の想像をとらえることもあろう、それが【テオス】であった。あるいはまた水を前にして渇きにわかに抑えがたきことがあるかも知れぬ、そのとき渇きそれ自体が神なのである。その水に咽をうるおし、甘美な、なんともいえぬ快感に渇きが医されたなら、今度はそれが神となる。また水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象するのである。だがこれは決して単なる【質】ではない。厳[訳文は旧字体]存する実体であり、殆ど生きものと言っていい。それこそたしかに一箇の【テオス】、つめたいものなのである。が、つぎの瞬間、乾いた脣のうえにふとたゆたうものがある。それは《しめり》だ、それもまた神である。初期の科学者や哲学者にとっては、この《つめたいもの》《しめったもの》《あたたかいもの》《かわいたもの》などはすべてそれ自身充分な実在物であり、したがって神々であり、【テオイ】[テオス=神の複数形]であった。》(『黙示録論』、‘ ’は訳文傍点、【 】はゴシック)

 存在し運動し結果を生む《もの》(things)、《つめたいもの》(“the cold”)、《しめったもの》(“the moist”)、《あたたかいもの》(“the hot”)、《かわいたもの》(“the dry”)──すなわち、単なる質(a quality)ではなく、厳存する実体(an existing entity)であり、殆ど生きもの(a creature)と言っていい神=テオス(theos)、それ自身充分な実在物(things in themselves realities)である神々=テオイ(theoi)。
 私が考えている「クオリア=ペルソナ」とは、ロレンスが言うところの、厳存する実体・実在物としての「テオス」もしくは「テオイ」にほかなりません。それは「単なる質」ではなく、存在し運動し結果を生む「もの」、いわば「生きた質」(クオリア)であり、かつ、「神」である。そして、ここでいう「神(々)」とは、一神教における人格神(創造神)ではなく、「古代異教」的な形象思考がもたらすもの(あるいは「神=自然」のスピノザの神観に通じるもの?)であった。

 今回は、ロレンス=福田の文章を、範とすべき標本として記録しておきたいがために、一つの節を起こしました。以上に述べたような複層する精妙な概念として、私は、「ペルソナ」を考えていきたいと思っているのです。


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