遙かすぎて見えない、大江健三郎さんが逝く
大江健三郎さんが亡くなりました(すみません、亡くなってからだいぶ時間がたっています。アップしたつもりが下書きのまま忘れていました)。
これまで、本屋さんで目にするような作家の本は、食わず嫌いでも最低限一冊は読むようにしているのですが、実は、大江健三郎さんだけは、一冊も読んでいません(エッセイは別)。
最初に、高校生の時に読んだのですが(題名は思い出せない)、文章が難しすぎて(ファンはその文体こそがいいと言いますが)、見事に挫折しました。
小林秀雄も「文章というものには稚拙さはあっても、難解さはない」と、言っていたとおりで、私の読解力が幼稚だったせいでしょう。
しかし、人間というのは、不思議なもので、ある作家について最初に挫折すると、その後再び手に取ることはなくなります。なかなかリベンジとはいかないものです。
というわけで、あれから、うん十年が過ぎました。
そして、再び手に取りました。・・・が挫折(題名はあえて触れず)。
なんと、今度も読み通すことができなかったのです。
なぜか・・・高校生だったあれから、数千冊(大げさ)の本を読み、読解力も理解力も格段とたかくなったはずなのに、また挫折してしまったのです。
そして、本棚の横にあった、村上春樹さんの騎士団長殺しを読み出す始末・・・。
いったい、なぜ?
好みと言ってしまえばそれまでですが、好みを超えてでも読むのが、文学者の義務のはず。それでも、十ページも進まない。
ふと、自分なりに考えると、それは、中上健次さんの小説を読むときと似た感じなのに気づきました。
一言で言えば、「本当のことが書いてある」。
それが、少し読んだだけで、文体や言葉の端々から香ってきてしまうのです。
それを、しょうもない劣等感本能が察知して、
「自分にはこんなものを書けない」、「こういうのを自分も書きたいと思っているが、絶対に書けない」と思ってしまうことへの恐れ、そこから陥る深い自己嫌悪から身を守ろうとする、自己防御本能が発動するのです。
それは、偉大すぎる人物の伝記のウィキペディアを読む気が起こらないのと似ています。こんなすごい生き方はできない。自分は平凡は。読んでも惨めになるだけだと・・・。
だから、大江健三郎さんのファンからしてみれば、一冊も読んでないのに、何がわかるんだ?と思われるかもしれませんが、一冊も読まなくても、スピーチや、受賞のインタビュー、新聞記事などは目にしてきたから、その偉大さは充分わかります。
その果てに、この人は自分とはレベルが違う人だという刷り込みが起こり、勝手に畏怖するような態度を作り上げてしまうのです。
きっと高校球児が、メジャーリーガーの大谷さんに会ったとき、硬直して何も話せなくなるように。ちょっと喩えが変ですが、仰ぎ見すぎて後ろにひっくり返ってしまうのです。それは理屈じゃないだけに。
本当は、ここで、大江健三郎さんの小説の読後感想を、ずらずらと並べられたらいいなと思いますが、正直言って小説は一冊も読んでいないのでできません。
敬して遠ざけるという心境を書くしかありませんでした。
ただし、それ以外の本は何冊か読んでますので、特に感銘を受けた本を。
それは、何と言っても「大江健三郎 作家自身を語る」でしょう。
私が、もし小説家希望の人が、小説家としての心構え(書き方ではないです)を知るには何かいい本があるでしょうと聞かれたら、
丸山健二「まだ見ぬ書き手へ」、村上春樹「職業としての小説家」、夏目漱石「文芸の哲学的基礎」、J・Kローリング「ハリー・ポッター誕生」を挙げると思います。
そして、この「大江健三郎 作家自身を語る」は、特に晩年の頃の、自分の後を追う、文学に賭ける小説家志望の者達への言葉が素晴らしいです。
などなど、
というふうに、すべてを引用しきれないほど素晴らしいです。
やはり、文学を少しでも真剣にやりたいと思う人は、たとえ一冊の小説を読んでいなくても、その熱い思いだけでも継いでいきたいし、いけると思います。
ご冥福をお祈りします(今さらですみません)。
夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com