民放テレビ開局 そして、演芸の再開 (仮)吉本的マーケティング概論 破壊的イノベーションの110年(8)  

演芸再開に向けて

映画製作は事業として失敗に終わったが、映画興行は好調を続けていた。1957(昭和32)年4月には地上3階地下1階の「梅田グランド会館」を建設し、地上を洋画封切館の「梅田グランド劇場」地下を東映系の封切館「花月劇場」とした。しかし、映画の観客動員がピークを迎えようとしている最中、社内でも演芸再開の声が上がり始めていた。
後に両者とも吉本興業の社長になる、常務の橋本鐵彦、事業部次長の八田竹男(僕が入社したときの社長)が中心となって当時社長の林正之助に直訴した。「吉本八十年の歩み」によると、その理由は「テレビの擡頭により、映画事業の先行きに不安を感じて」ということになっているが、僕はそれには懐疑的だ。戦前の吉本に入社した社員達は、演芸が好きで入ってきた人々であり、戦後10年以上経ち、様々な規制が解かれ、映画興行で利益を出して経営が落ち着き始めたタイミングで、そろそろ演芸を再開したいという純粋な思いではなかっただろうか。
テレビに対して、映画業界はさほど脅威を感じておらず「電気紙芝居」などと蔑んでいた。そのときの名残か、今でも業界では映画のことを「本編」と言う。ハリウッドとは随分違う反応だった。
吉本は、春団治のラジオ出演以来、マスメディアのパブリシティ力を十分理解しており、テレビ放送を演芸再開の好機と捉えたに違いない。その推論が正しいか、八田竹男に直接聞いておけばよかったと、今でも悔やんでいる。


梅田グランド開館の翌年が映画入場者のピーク

戦前に個性の強い数多くの芸人を抱えて、そのマネジメントの大変さを一番良く分かっていた林正之助は演芸の再開に慎重だった。彼は、巷間で噂されるイケイケの攻撃的な性格というイメージとは異なり、また弟の弘高と違って、実に堅実な商売をする慎重居士であった。
最後は、「自信あるのか?」という正之助の問に、即座に「あります」と八田が答えて演芸の再開は決まった。
何しろ専属芸人は花菱アチャコただ一人だから、演芸を再開するには多くの芸人を集めなければならないので、水面下での出演交渉が始まった。出演の同意を取り付けた主な芸人達は、東五九童・松葉蝶子、林家染丸、島田洋介・今喜多代、西川ヒノデ・サクラ、東京の柳家三亀松、雷門五郎、柳亭痴楽、アダチ龍光、永田キングらであった。

民放テレビ放送とともに演芸復活

1959(昭和34)年3月1日、日曜日。
梅田グランド会館地下の映画館であった花月劇場を改装し、演芸場「うめだ花月劇場」としてオープンした。
その日は、毎日放送がテレビ放送を始めた日でもあった。
うめだ花月劇場から舞台生中継(午後4時20分~5時50分)された演目は、吉本ヴァラエティ「アチャコの迷月赤城山」、東五九童・松葉蝶子の漫才、三代目林家染丸の落語であった。
吉本ヴァラエティの第一回のメンバーは、吉本興業専属コメディアンは花菱アチャコしかいなかったので、佐々十郎大村崑芦屋小雁中山千夏など東宝系の北野劇場で活躍していたメンバーを借りて上演した。もう一つ特筆すべきは、この脚本を花登筺が書いていることである。後に、読売テレビ「細うで繁盛期」関西テレビ「どてらい男」などで、なにわの商人根性ものドラマで大ヒットを連発した作家である。この頃は、北野劇場で彼が主宰していた「笑いの王国」が東宝とギクシャクし始めていたため、そのメンバーを引き連れて吉本の舞台を作る余裕もあったという事情があった。

その前年1958(昭和33)年、松竹は道頓堀のSY角座を改装し「角座」として1,000席規模の大演芸場をオープン。また同年12月には千土地興行が旧大阪歌舞伎座跡地に建った千日デパート6階に千日劇場、通称千日ホールをオープンし演芸場復活が本格化した流れがあり、遅ればせながら吉本もその翌年、演芸場を復活させたのだった。
吉本が遅れた原因は、正之助が演芸復活に慎重であったこと、終戦の年に花菱アチャコ以外の芸人と専属契約を解除していたため、他の芸人たちとは改めて交渉しなければならなかったこと、また、うめだ花月劇場開場を毎日放送テレビ開局に合わせたということもあったのではないか。
ともあれ、吉本の演芸はうめだ花月劇場開場とともに再始動した。

毎日放送とタッグを組む

1956(昭和31)年、朝日放送と毎日放送が共同で運営する大阪初の民放テレビ局「大阪テレビ(OTV)」が開局した。その2年後には「読売テレビ」「関西テレビ」が開局する。そして、その翌年には大阪テレビが「朝日放送」と「毎日放送」に分離し、大阪テレビは朝日放送が引き継ぐことになった。
大阪毎日会館の上に一からテレビ局を作り直すことになった毎日放送は、スタジオ不足ということもあり、劇場からの中継を娯楽番組の中心に据えた。うめだ花月劇場からの中継は、NHKを除き毎日放送との独占契約となり、その始まりがが吉本ヴァラエティであり、その後、「素人名人会」「モーレツ!!しごき教室」「ヤングおー!おー!」などの人気番組を量産することになる。
OTVを引き継いだ朝日放送は、「やりくりアパート」などの人気番組も引き継ぐことができ、毎日放送より先行しており、また、吉本より先行して角座をオープンさせ戎橋松竹などに人気芸人を送り込んでいた松竹芸能とは中田ダイマル・ラケットなど一部人気芸人と専属契約などを結んでいた。そのため、毎日放送は東宝、吉本と組まざるを得なかったという事情もある。
開局の年である1959(昭和34)年に、これもスタジオ不足から東宝系の南街シネマで上演、生中継された、大村崑芦屋雁之助芦屋小雁茶川一郎による「番頭はんと丁稚どん」は放送開始直後から大人気となり毎日放送の看板番組の一つとなった。

毎日放送で吉本の番組が流れると、画面に「うめだ花月より中継」と字幕が入るので、うめだ花月に行けばテレビに出てる芸人や喜劇が観られるということで、放送そのものがうめだ花月劇場のプロモーションとなった。ただ、初代桂春団治のラジオ出演のときのように爆発的な動員につながったわけではなかった。
大阪の演芸界を制覇して、春団治以外にも集客力をもった芸人を数多くというより独占していた昭和初期の吉本ではなく、松竹芸能に名人、スターを押さえられてしまっていた後発の演芸興行会社となった吉本興業には、テレビの強大なパブリシティ力も限定的にしか効果を及ぼさなかったのである。
吉本興業は、その創業時期にしか経験したことのなかった挑戦者の立場に戻ったのだ。

吉本新喜劇誕生

劇場への集客に苦戦してはいたが、大阪のテレビでは、吉本所属の芸人ではなくとも、前述の「番頭はんと丁稚どん」をはじめ、朝日放送では「やりくりアパート」、当時一番人気の中田ダイマル・ラケットの「スチャラカ社員」、そして1961(昭和37)年には超人気番組の「てなもんや三度笠」ががスタートし、読売テレビでも1959(昭和34)年には「崑ちゃんのとんま天狗」が始まるなど、コメディ番組が百花繚乱状態となり、関西のお茶の間はお笑い一色になったことが吉本の背中を押した。
また、大阪の芸人達が全国ネットの番組に出ることによって、日本各地でその知名度を上げ、後々の団体営業に大きなプラスになったことも見逃せない。

うめだ花月劇場開場の1年半後の1960(昭和35)年11月中席「秋晴れ父さん」から吉本ヴァラエティは「吉本新喜劇」と併記されることになり、その後、吉本新喜劇のみの表記となる。また、1962(昭和37)年9月から、それまでも不定期で放送されていた吉本ヴァラエティが、毎日放送「サモン日曜お笑い劇場」毎週日曜日レギュラーで放送されるようになった。これは、放送枠を変えながら、今も「よしもと新喜劇」として長寿番組となっている。

吉本ヴァラエティに出演する吉本興業所属コメディアンは花菱アチャコただ一人で、外部コメディアンの客演に頼りながらの上演であったが、その間、新人の発掘育成に力を注ぎ、白羽大介秋山たか志花紀京ルーキー新一平参平奥津由三岡八郎らが、それぞれ独特の芸風やギャグで存在感を示し始めた。
とは言っても、まだまだ演技力は松竹の渋谷天外藤山寛美には遠く及ばず、松竹新喜劇のような細かな心情表現を必要とする人情喜劇を上演することは難しかった。なので、徹底的にドタバタのスラップスティック・コメディにしたのが吉本新喜劇であったし、今も基本は変わらない。
ストーリーも大阪の庶民の日常を描いたシンプルなものであり、それだけに視聴者の共感を得やすいものであった。
また、役名も役者の芸名をそのまま使うので、岡八郎は「八ちゃん」であり花紀京は「京やん」であったことも、視聴者、劇場のお客様に親しみやすさを持たらすことになった。

京都花月となんば花月のオープン

こうして花月のトリを取る演物が固まってきたところで、吉本興業は次を仕掛けていく。うめだ花月開場の三年後、1962(昭和37)年6月、京都花月をオープンさせるのである。
京都花月は、戦後は映画館として使われていたが、戦前、戦中は演芸場として使われていたため舞台設備、楽屋も完備されていたので、あまり手をかけずに演芸場として復活させることができた。また、劇場の場所も京都随一の商店街である新京極の真ん中にあり、地元の方やや旅行客が買い物に大勢訪れる最高のロケーションであった。
開場時の演目は、漫才、落語、浪曲、アクロバットに加え、花菱アチャコが特別出演した吉本新喜劇の他、ポケット・ミュージカルスステレオ・コントなどで構成された。
ポケット・ミュージカルス」は、戦前の吉本ショウほど大掛かりではないが、バンドの演奏を中心に軽演劇を組み合わせた音楽ショーだった。これは僕が入社した頃の1980年代前半でもまだ続いていたが、その時は、歌手の歌の合間に新喜劇のメンバーがコントをするという形式になっていた。勿論、音楽ネタもあり、バンドがイントロを演奏し、池乃めだかがマイクに近づいて歌い始めるのかと思ったら「俺、この歌知らんねん」といって、バンドがズッコケるというようなことをやっていた。
ステレオ・コント」は、吉本新喜劇では大御所や客演の人気者に気を遣って押さえていた若手のコメディアンや若手の漫才師たちが、そのエネルギーを爆発させる新喜劇以上にアナーキーなスラップスティックだったようだ。

開場の翌月には、早くも意欲的な試みである「吉本ヴォードヴィル・ショウ」を公演した。これは、歌、踊り(タップダンス、セミヌード・ショウなど)、コント、バンド演奏などを詰め込んだ、浅草花月で上演された往年の吉本ショウに近いものだった。
これは、難波千日前に旗艦劇場なんば花月をオープンする際の演物を考える上での実験であり布石だった。

京都花月オープンの翌年、1963(昭和38)年7月1日、洋画封切館であった「千日前グランド」を改装し、演芸場なんば花月劇場が開場した。資料によると改装を始めたのが6月23日だから、僅か一週間程度で改装工事が終わったことになる。元々演芸場だった京都花月と違って元は映画館なので楽屋がなく、僕が入社した当時も、楽屋はまだプレハブの小屋だった。
しかし、舞台は間口八間(約14.5m)、奥行き三間半(約6.4m)、前面にはオケピットとまではいかないが、バンドボックスまであり、さすがに廻り舞台やセリは無いものの、本格的な劇場だった。
劇場のコンセプトは看板に掲げられているとおりグランド・ボードヴィルである。
新装なった舞台では、そのコンセプトに合わせ、演目も、京都花月うめだ花月という吉本の演芸場、同じミナミにある角座千日劇場という松竹系の演芸場とも差別化が図られた。それが、1年前に京都花月でトライした吉本ヴォードヴィルである。それを支えるのが、フルバンドの「たんぽ英敏と吉本オールスターズ」と15名のダンサーによる「大津翠と吉本ダンシングチーム」だった。
第一回公演「ブラボー大阪」の主な出演者には坂本スミ子山東昭子(後の参議院議長)の名前があり、司会は浜村淳である。


大型の劇場に合わせて相当贅沢かつ派手に演目を作っていたため、集客力のある東京からのゲスト出演も目立っている。当時大人気を誇っていたスリーファンキーズや、ロカビリーブームを引っ張っていたミッキー・カーチス山下敬二郎平尾昌晃飯田久彦や、コメディアンではトニー・谷清水金一世志凡太小桜京子などが特別出演、演芸陣では柳亭痴楽(四代目)三遊亭圓右(三代目)桜井長一郎牧伸二小野栄一らが開場から三ヶ月間の舞台に登場した。
この意欲的な試みも、入れ替えなしのせいで東京の人気歌手のファンが一日中居座ってしまい観客が回転せず、思ったほどの興収は上がらず且つ経費が嵩み過ぎて採算が取れず、数カ月後には吉本専属芸人を中心にしたうめだ、京都と同様のプログラムに合わせてしまった。全精力を注ぎ込んでも、収益性、継続性が無いと判断すると撤退も早いのが吉本興業の信条でもある。

劇場は、どんなに人気の興行でも、客席数に物理的に限りがあり、また都度生身の人間が演じなければならないため収益力に限界があるのだ。
映画なら上映館数を増やすとか上映回数を増やすことが可能だが、実演ではそれができない。本やCDなどは増刷すればいいが、実演はそれができない。
収益力をあげようとすれば、入場料を上げるしかないのだ。
正之助が、映画から演芸はシフトすることを躊躇ったのは、そのあたりの考えがあったのかもしれない。

なんば花月からのテレビ中継は朝日放送独占となった。これで、毎日放送独占うめだ花月と並び、吉本新喜劇は2つの放送局でそれぞれ土曜と日曜に放送されることになった。これで、吉本新喜劇が、関西のお茶の間に単なるテレビ番組として定着し、人気になったというにとどまらぬ文化になっていくのである。関西及び吉本新喜劇を放送している地域の小学生は、土曜や日曜の午後、新喜劇を観たさに急いで家に帰った。そして、月曜日には学校で、その週末の新喜劇のことを話したり、ギャグのマネをして楽しむのだ。僕も勿論その一人で、熱心な視聴者でありエバンジェリストであった。僕が観た初めての舞台演劇は吉本新喜劇であり、一番多い回数を観た演劇も吉本新喜劇であった。それが、関西を中心とする吉本新喜劇文化圏を生んだのである。静岡以東の方には何のことやら全く実感がわかないであろう。

事業の多角化

1963(昭和38)年には、本社を大阪市南区(現中央区)心斎橋筋2丁目24-1に移した。
僕が入社したときも、本社はこの吉本ビルにあり、その3、4階が後に「心斎橋筋2丁目劇場」となる。

この移転は、それまでの本社があった難波千日前の土地をボウリング場にするためだった。
翌1964(昭和39)年には58レーンの大ボウリング場の「ボウル吉本」をオープンさせた。繁華街にあり、折からのボウリング・ブームも追い風に、連日満員の大盛況であった。

正之助にしては大胆な投資だと思われるかもしれないが、この新規事業を断行したのは弟の弘高である。
実は、正之助は、なんば花月オープンを前にして、持病の糖尿病の悪化など体調面で社長を辞任し、その地位を弘高に引き継いでいた。
彼は、社長就任後初仕事で大きな成功を勝ち取り、大阪吉本をどんどん改革していった。演芸の吉本から、総合レジャー産業の吉本を目指したのである。事業以外のところでは会社のロゴマークと社訓社是の制定が一番大きなトピックスであろう。
それまでは吉本家の家紋である花菱を会社のトレードマークとしていたが、東京オリンピックを控え会社のアイデンティティを示す新しいマークを作ろうということで、建築家の岡田哲郎に依頼した。
出来上がったのは、「吉」の文字を笑顔風にデザインしたものだった。演芸復活の吉本興業にとってはピッタリのマークだったと言える。僕らは「にっこりマーク」と呼んでいたが、1981(昭和56)年の入社時に社員バッジももらわなかったし、封筒や印刷物にも入っていなかったが、2007年のホールディングス化に伴い、少し意匠を変えて復活した。

社是と社訓に関しては、大衆に奉仕し社会の文化向上を謳っているものの、従業員一同、会社の発展のために一生懸命働けという内容なので、高度経済成長真っ只中の当時としては当たり前のものだったのだろうが、平凡と言えば平凡なので、ここでは言及しない。

いよいよ、演芸王国復活の基礎はできた。あとは追撃あるのみである。


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