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ポスト漫才ブーム 吉本マーケティング概論(仮)破壊的イノベーションの110年(17)

桂文珍の大躍進

漫才ブームでスターダムにのし上がった若手漫才師たちや明石家さんまは、テレビ業界では、その存在感を確固たるものにしていた。しかし、前章で述べた通り、全国ネットのゴールデン枠でのMCの地位にある桂文枝(当時は三枝)や西川きよし・横山やすしを脅かすには至っていなかった。
また、これも前章で述べた通り、笑っていいとも!には当初、漫才ブームのスターたちは誰もキャスティングされず、吉本の芸人でレギュラーになったのは桂文珍ただ一人だった。
ヤングおー!おー!ザ・パンダの一員として、全国での知名度もそこそこあり、関西ではテレビのレギュラーも数本あり、ラジオの帯番組を持っていた実力者ではあったが、全国ネットでMCを担当するまでには至ってはいなかった。
そんな文珍が何故レギュラーに抜擢されたかといえば、大阪の創作落語の会もちゃんとチェックしていたプロデューサーの横澤彪が、年齢的にもタモリと絡みやすく文化人と並べても違和感のない文珍を指名したのかもしれないが、文枝、やすしきよしの後継者としての明石家さんま島田紳助が、彼らと世代的に開いていることから、連続性を確保するために木村政雄文珍を強く推したのではないかと思う。彼が全国ネットのMCとして活躍し始めたとき、担当マネージャーになっていた僕に、「中井、さんまと紳助がゴールデンのMC取れるまで、文珍頼むで」と木村から言われたから、その推論は間違いないだろう。実際、タモリ文珍のコンビによるトークは、笑いの量も十分な鼻につかない知的な会話で、横澤と木村の思惑通りのものとなった。
同時期に大阪ではローカルながら人気の長寿番組になる読売テレビ「おもしろサンデー」が始まったのは大阪本社の判断だろうが、東京ではゴールデンタイムで、山田邦子とのコンビで司会を努めテレビ東京「びっくり世界一」が始まり、この番組の終了後の1983(昭和58)年4月から同局で和田アキ子とのMCで「独占スタージャック!アッコと文珍の生放送」が始まったのも、いいともにキャスティングされたのと同じ理由だと考えられる。その後、1985(昭和60)年4月に全国ネット・ゴールデンタイムで朝日放送「パーティー野郎ぜ!」が始まり、翌1986(昭和61)年4月に、西川きよしの参議院議員選挙出馬によって空席になった全国ネットの読売テレビ「スター爆笑Q&A」のMCを引き継ぎ、その地位を確固たるものにし、バラエティのMCだけでなく、クイズ番組、報道・情報番組、ドラマなど幅広い分野で大活躍することになる。

仁鶴、文珍のマネージャーに

明石家さんまのマネージャーになって半年そこそこで、僕は担当を変えられることになった。文珍・仁鶴を担当していた1年先輩の野山雅史が東京に転勤することになり、その後を引き継ぐことになったのだ。といっても、お二方とも現場をご一緒して何度もお話をさせていただいており、レギュラー番組のスタッフも知り合いが多く、引き継ぎの挨拶回りとかもなく「何かわからんことあったら電話くれ」ということで野山は東京に旅立ち、なし崩し的に担当することになった。

漫才ブーム後に全国ネットで大活躍を開始した文珍に比べ、その頃の仁鶴は、1970年代に一世を風靡し、その忙しさから喉を痛めてしまい、回復を目指し仕事をセーブしている時期だった。レギュラーも、ABCラジオ「日産ポップ対歌謡曲」「東芝サタデーワイド 仁鶴のなんやかんや土曜日です」とテレビは毎日放送「ワイドYOU」だけと控えめで、あとは毎月の花月の出番と、ホールで行う落語会で落語を演じるという状況だった。
喉の機能回復のため、鍼やマッサージなど複数の治療施設に並行して通っており、移動の車の中や楽屋では喉のトレーニングのためにロシア民謡を朗唱していた。
だから、僕が夢中になって追いかけていた1970年代前半の疾速感あふれる語り口は押さえられ、丁寧な言葉選びと落ち着いた「本格派」に変わっていたが、本人がそれを良しとしていたのかは分からない。
とにかく、吉本では並ぶことなき高潔な人格者で、会社や社員や他の芸人の悪口を聞いたことがなかった。実は、僕は一回だけ聞いたことがあるが、これは死ぬまで口外しない。
当時の仁鶴は、メディアの仕事を増やすことには消極的だったが、1986(昭和61)年4月、西川きよしの参院選出馬により降板した「バラエティー生活笑百科」の司会を引き受けることにした。後輩の代わりということで悩んだようだが、いざ出演すると、2017(平成29)年に体調不良で降板するまで、30年以上にわたる大長寿番組となり、仁鶴のテレビ番組の代表作となった。
本当に側にいて学ぶことばかりだった。本当に尊敬していた。会社や一門を恨んでも仕方がないが、吉本を辞めていたとはいえ、身内だけで執り行うとのことで、通夜にも葬儀にも参列させてもらえなかったことが悔しくて哀しくてしかたがない。

上方落語四天王の弟子たち

戦後、消滅の危機に瀕していた上方落語を再興したのは、六代目笑福亭松鶴三代目桂春団治桂米朝(三代目だが普通は付けない)、五代目桂文枝(桂三枝、今の六代文枝の師匠)のいわゆる上方落語四天王であるが、マスメディアに乗ってそれを全国区の人気にしたのは、吉本では、その四天王の初期の弟子である月亭可朝笑福亭仁鶴桂三枝(当時)らであった。この世代は、テレビを中心とするマスメディアでの凄まじい活躍によって記憶されているが、落語の実力も素晴らしいものだった。若いころの落語を聴いてみてほしい。僕が、高校時代に友人の家で一緒にテスト勉強をしているときに、番組名は覚えていないが(なんとなくYTVお笑いネットワークだったような気がする)月亭可朝が舞台に登場し、「いやー、ホンマにホンマ、ホンマですわ」「ホンマに」「ホンマにホンマ、あと3分おまんねん。ホンマにホンマ」「ホンマにホンマですわ。ホンマに」と最後まで「ホンマにホンマ」で通し、大爆笑を取っているのを観て、友人と爆笑しながら「このオッサンとんでもない天才やな」と感心したのを鮮明に覚えている。そして、この可朝と同門の桂枝雀の存在も大きかったと思う。同じ古典落語を演じる仁鶴にしてみれば、同世代で常に気になる存在であっただろうし、喉さえ本調子であればと内心忸怩たる思いがあったに違いない。本人からそのような言葉はきいたことがないのだけど。また、三枝が未来の古典を作るという創作落語に舵を切ったのも、枝雀の存在が大きかったのは間違いない。テレビなどメディア関係の仕事で多忙を極める仁鶴三枝は、それを控え落語の研鑽に全力を集中した枝雀を羨ましく思っていたかどうかは分からないが、それが吉本米朝事務所との違いであることは間違いない。また、米朝事務所の落語家は、吉本の花月や松竹の角座などの寄席に定期的に出演することはなく、基本的にはホールや地域の公的施設などで行う落語会を中心に活動していた。つまり、落語を聴きたいと足を運んでくれるお客様の前で落語を演じていたのだ。一方、吉本の花月は、漫才を中心に番組編成されており、トリは吉本新喜劇である。それ目当ての地方からの観光客や子供連れも多い客層の中で、じっくり落語を聴かせるのはなかなか至難の技である。当時は一出番が15分だったので尚更だ。そこで、短めの噺を爆速で語る初代春団治のような仁鶴の高座が、そのキャラクターも相まって絶大な支持を集めたのは当然だっただろう。

東京の寄席が、今だに落語中心であるのに比べ、吉本の劇場が漫才中心になったことについては、下記を参照されたい。


志ん朝・仁鶴 二人会

当時、自分の喉の調子に納得のいかない仁鶴は、一人で三席演じる独演会は開催せず、ホールで落語会をやる場合は、二人で2席ずつ演じる二人会が多かった。その中でも白眉は、志ん朝・仁鶴 二人会だった。僕が江戸落語のなかで一番好きだったのが古今亭志ん朝だったということもあるが、江戸と浪花の粋が両方堪能できる贅沢な落語会だった。時間と場所が都合の良いときには、担当を外れてからも極力観に行っていた。志ん朝は大阪の新喜劇(松竹の方)や上方歌舞伎、そして、もちろん上方落語に造詣が深く、江戸っ子の代表のような芸人だったが、親しみを込めて仁鶴のことを大阪風に「仁鶴やん」と呼んでいた。仁鶴は志ん朝を「おっ師匠(しょ)はん」と、リスペクトと親近感を込めて呼んでいた。固い固い友情だったと思う。
ある日、NGKの楽屋で仁鶴と話していると、志ん朝と二人で彼の行きつけの店に飲みに行ったという話になった。
「その店の人に、オレのことなんて紹介したと思う?」
「え、なんて言わはったんですか」(唐突だったので、僕も質問に質問で返してしまった)
「ただ、『あ、オレの友達』やて」
「えー、粋でんな。カッコよろしいなあ」
「粋やろ?カッコええやろ」
「江戸っ子でんなあ」
「江戸っ子やなあ」
と感心したのを忘れない。これ、どっかで使ったろと思っているが、まだそれが似合う男にはなっていない。

88文珍デー

テレビの仕事が急増し、花月の出番もこなしていた文珍は、そのストレスを解消するように、自らの独演会「88文珍デー」を1982(昭和57)年から開始した。ケチと評判だった文珍だったが、年に一回、ファンを楽しませるために「中井ちゃん、赤字になった分の経費はワシが持つから」と大散財した。実際、僕が担当した第二回は、シンセサイザーとレーザーを使うと言い出し大変だった。当時レーザーは大変高価なものだったし、セッティングもデリケートで苦労した。またシンセサイザーも、本人の手元で効果音的に使うというような小手先のものではなく、なんと日本のプログレッシブ・ロックファンのなかではカリスマ的存在の難波弘之を呼ぶというのだ。
当時は文珍もマネージャーの僕も尖っていたので、今までの吉本ではできなかったことや、毎年、世の中の一歩先に行く内容、効果を使おうと必死になっていた。
翌年の第三回は、パフォーマーのローリー・アンダーソン(Laurie Anderson)のマネをして、衣装の体のいろいろな部分に電子パーカッションのパッドを仕込んで体を叩いて演奏するとか、マルチスライドを使って創作落語の宇宙感をビジュアル的に表現するなど、意欲的かつ先端的な表現活動を続けていた。

Laurie Anderson


またある年は、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団堤俊作との共演で、大阪のザ・シンフォニホールでフルオーケストをバックに落語を演じたこともあった。フルオーケストラによる、オチの効果音「ジャンジャン」は鳥肌が立った。そして、文珍は忙しい中、自らもチェロを練習して、パッフェルベルのカノンを演奏した。今から考えれば、朝日放送も落語会にシンフォニホールをよく貸してくれたものだ。

心斎橋筋2丁目劇場のはじまり

落語の楽しさが分かり始めた頃、京都花月のプロデューサーの上司が、田中宏幸から大﨑洋に変わった。これが、僕の吉本人生を大きく変えることになる。

その頃、僕が朝日放送担当として出場者を決めたり、現場で折衝にあたっていた1983(昭和58)年の第4回「ABC漫才・落語新人コンクール」で、予選を断トツで通過したダウンタウンが、その年に大阪駅の上にできたアクティ大阪内のエキスタで決勝が行われ、トミーズが優勝する。「テレビ演芸」に続く、ダウンタウン2度目の敗北である。おそらく彼らがコンペティションで負けたのはこの2回だけなので、その2回とも僕が立ち会っていたことになる。このエキスタは、大丸百貨店の2フロアー吹き抜けのサテライトスタジオで、デパートの買い物客からも観ることができるオープンスペースだった。そんな環境の中では、トミーズが圧倒的に有利だった。勿論ダウンタウンは、この賞を翌年ぶっちぎりで受賞している。これは、まだ僕がダウンタウンのマネージャーになる前の話。

吉本興業の心斎橋の本社ビルの4階にキャパ100席程度の小さな劇場があり、僕が入社した頃には南海電鉄に貸していて南海ホールという名前だった。1984(昭和59)年から、契約が平日のみとなり、週末は吉本の自主興行を打つことになった。当時担当責任者の冨井善則はNSCの責任者でもあったこともあり、NSC1期生を中心にしたメンバーで「心斎橋筋2丁目劇場 in 南海ホール」という名前のイベント(通称心劇)を行っていた。

1985(昭和60)年、なんば花月、うめだ花月、京都花月のプロデューサーが冨井から招集され、「来年、南海から下のホールを返してもらうことになった。そこで何をやるか、それぞれの劇場担当で考えて欲しい」と言われ、それぞれがイベントを始めたが、いつの間にか京都花月組しか残っていなかった。何か納得のいかないものを感じながら「どないしましょう?何やったって、このキャパでは黒字になりまへんで」と大﨑に言うと、「そうやな。それならいっそダウンタウンの劇場にしようや」ということで劇場の基本コンセプトは決まった。
ダウンタウンを中心に、同じくNSC1期生のハイヒール、トミーズ、おかけんたゆうた、ピンクダック達が出演したが、第一回目の公演は、本人たちの手売り、呼び込みにも関わらず、わずか14名の観客だった。このあと、トミーズ雅が手売りチケット(ノルマは課していなかった)を封も切らずに「売れませんでした」と返してきたので、大﨑が「わかった。もう出んでええわ。そのかわり、一生オレと中井の仕事は無いと思えよ」と静かにキレた。
その後、大﨑と僕がパーソナリティーを務めたラジオ大阪「わしらはお笑い探検隊」で、2丁目ゴングショーを開催し、4期生の今田耕司ホンコン・マカオ(当時のマカオは板尾創路ではなかった)や、高校生だった東野幸治、大学を卒業して一度就職してからこの世界に来た清水圭・和泉修、非常階段シルク・ミヤコなどが仲間に加わった。

「わしらはお笑い探検隊」スタジオ写真左が僕

そのメンバーの前で、2丁目劇場の新しい基本コンセプトが大﨑の口からハッキリ告げられた。
2丁目では漫才はやらない
「漫才はもう千日前周辺にしか残ってへん。テレビでも求められてへんやろ。」
極論ではあるが、新しい劇場で新しいことをやっていくためには、このぐらいの言いきりと分かりやすいビジョンをを示さないと一つにならないし、勢いもつかないのだ。ヴィジョナリスト大﨑洋の面目躍如である。このときから僕は、周恩来のような実務派の道を歩き始めたのかもしれない。
実際、漫才ブームが終わって、2001年にM-1が始まるまで、漫才というジャンルは低迷とまでは言えないまでも、ブームが大きすぎた反動もあり、盛り上がっているとは言えない状態が続いた。
なにはともあれ、心斎橋筋2丁目劇場は動き始めた。


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