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村弘氏穂の日経下段 #45(2018.2.17)

まさかりの先から滑り落ちる様にフェリーでむつ湾渡る午後五時

(横浜 夏目陽子)

 青森県北東部のまさかりの先である脇野沢港から蟹田港へ向けて、午後五時に出航するフェリーは一年にわずか十便しかない。五月の連休と八月の盆休みにだけ特別に運航している便だ。帰省だろうか、観光だろうか、それを知る由もないが、作者が描き出したこの下北半島と津軽半島の間の凪には何らかの哀愁が漂っている。蟹田港に着くころには日暮れも近いからだろうか。「滑り落ちる」という表現が航路を涙腺に変えてしまったのだろうか。もしくは日常から解き放たれた作者が日常へと戻る航路なのかもしれない。初句の鉞半島の「まさかり」の感化もあって、どことなく不穏な潮目も読みとれる。まさかりとは言うまでもなく大木を伐採する道具だが、かつては狩猟具や武具として扱われていたこともある。因みにだが、むつ湾フェリーの名は「かもしか」だ。

雪の日に拾った仔猫捨ててきた黒い聖書と重さが似てる

(横浜 橘高なつめ)

 これはバビロニア人の王に捕らえられて、バビロンへ拉致されてしまうことになった民衆へと作者から差し出した手紙だろうか。偶像崇拝の無力さや愚かさを指摘する一方、偶像を持たないことの正しさを歌に綴っているようだ。その手紙を至高の詩へと変えたのは、初句の「雪の日」だろう。降雪の背景があることで白と黒との対比の妙味が生まれたばかりか、仔猫と聖書が似ているという重量ではない命の重み、言葉の重みが凛と際立った。まるでパゾリーニのモノクロ映画のワンシーンのような空気感がある。古来から猫は神聖なものとして崇められたり、魔女狩りに代表されるように悪の象徴として虐げられたりと、極端な歴史の中を生き延びてきたが、その小さな命の重さは本来何ら人間とかわりがないのだ。作者の目の前の現実と回想の中を行き交う白と黒は、光と闇であり、天使と悪魔であり、そして白い紙と黒いペンがそこにあったから、この詩歌が生み出されたのだ。銀盤の上を黒い衣装を纏ったフィギュアスケーターが舞うように、美しいコントラストが印象的な作品だ。

工場の早い者勝ちカステラの耳のまとまり買うための列

(八王子 坂本ひろ子)

 カステラといえば贈り物の代表格だが、そのカステラの切れ端は到底贈り物には向かない。しかしながら、美味しいカステラ屋のカステラの切れ端はやはり美味しい。だから出涸らしのお茶と一緒に、他人からカステラを贈答されることなど滅多にない自らが食べるために買うのだ。つまり、早い者勝ちでその「カステラの耳のまとまり」を勝ち取った人々はある意味、贈り物が届かない負け組ともいえよう。ワケあり商品の購買者こそ、何らかのワケありだったりもするのだ。その列にならんでいる集団がまさに、お買い得情報を聞きつけた「耳のまとまり」ということなのかもしれない。プロセスを追うことによって浮かび上がるブラックユーモアと逆転現象が、カステラの耳のように思いがけない妙味と至福の時を与えてくれた。

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