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村弘氏穂の日経下段 #60(2018.6.2)

虚ろなる化粧を終えて君のいない世界の風に晒すくちびる
(下野 海老原愛子)

 今すぐに此処でキスしてくれる君なき世におけるメイクの仕方。一行に漂う椎名林檎的哀愁が読後も離れない。君がいる世界といない世界では<私>の作り方が異なる。その例としてルージュの種類もメイクアップの方法も全く違うということだろうか。そして何より、気合が違うんだろう。君がいない世界では、ツルツルのプルプルの唇で勝負する必要がないのだから。初句の『虚ろ』は二句目の化粧はもちろん、結句の『くちびる』にも関わり、ひいては歌全体、作者そのものまでどっぷりと覆っている。その世では主体の身も心も虚脱状態にあることをあらわしているのだ。だから読者は、ただ風が吹くだけの世界の空虚感や喪失感を痛いほど共有できてしまうのだろう。虚ろなる化粧を終えたという<私>は、実際には化粧をしていないということなのかもしれない。そんな素のままか、もしくはシアータイプのルージュをひいただけの<私>のくちびるは何かに満たされることもなく、ほのかな色と潤いを吹く風に奪われて、カラカラに乾いてゆくだけなのだ。そんな刹那にその唇がそっと小さく呟いた詩がきっとこの作品なのだろう。決して大声でまくしたてたりはしない。そうしたら椎名林檎というよりはハイヒールリンゴ的世界だ。ところで、この作品の中にある初句から順に列挙すると《虚ろ、化粧、君、風、晒す》というフレーズは全て椎名林檎さんの『流行』という一曲の歌詞にも含まれている。他の部分では『私の名ならば女』で『それ以上でも以下でもない』とうたって『剥いだ裸の素材』である『女の…私に個性は要らない』『名前…は一つでいい これ以上要らない』と繰り返し訴え掛ける歌詞の名曲なんだけど、もしかすると彼女への共感や敬意が、ある種の祈りとして、秀逸なオマージュとして、この一首に散りばめられているのかもしれない。同じ時代を生きる女性として、現代の《女》のあり方やあるべき姿への矛盾や葛藤を共有しているのだとしたら、時として危うい孤独感や虚無感に苛まれた場面で、楽曲のラップやサビがリフレインすることもあるだろう。それは終わらない螺旋階段を昇ったり降りたりするだけで決して前には進まない行為だ。だけどそれが解りきっていてもなお昇降を続けることこそが、おそわれた無力感の中に存在する唯一の力なのだろう。同じように今回のこの作品の鑑賞も感想も全く終わりが見えてこないので、同じ作者の二年ほど前の日経歌壇のこんな作品を紹介して終わりとしよう。

ひとり剥く林檎の皮のスパイラル犬の遠鳴く夜を何処まで(海老原愛子)


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