村弘氏穂の日経下段 #43(2018.2.3)

本当の自分の方を捨ててきた柔らかそうな沢蟹がゐる
(横浜 小鷹佳照)

 甲殻類でありながら、水中で脱皮した沢蟹の体は120~150時間ほどはやわらかいままらしい。その間は外敵に狙われやすいので、水中の石の下などに潜んで体が硬化するのをじっと待つのだ。実際この段階で天敵に襲われて生涯を終えてしまう個体も多いという。脱皮とは成長のために古い外皮を脱ぎ捨てることに他ならないが、もしかすると、殻を打ち破ったものの次の一歩をなかなか踏み出せずに、待機している現状の作者と脱皮直後の沢蟹の姿を重ねたのかもしれない。甲冑を身に纏って突き進むべき本来の自身の方を捨ててしまった。勇ましい自分はもはや脱け殻であり、意気地ない自分として生まれ変わってしまったのだ。そのように身勝手な解釈をさせてもらうと、前に踏み出せない状況を体現しているのが蟹である点もユーモラスで味わい深い。




きみというえなじーはもうながれないぼくのこわれたぱんたぐらふ
(熊谷 高雄宥人)


 ヒトでいうパンタグラフはどの部位かふと考えてみたくなる歌。この作品から察するにそれは、きっと手であり腕なのだろう。菱形のタイプではなく近頃のシングルアームパンタグラフか。それでは、自身を電車に喩えた理由は何だろう。そこには甘い追憶が関与しているような気がする。当然のことではあるが、このぼくがきみと過ごした日々の記憶だ。「ぼく」の行動力の源泉である「きみ」は、ぼくの心をふるわせて体を奮い起たせてくれる、かけがえのない動力だったのだろう。その動力の供給を受けていた部位が、パンタグラフであるところの、手なのだ。腕を組んだり、手を繋いだりすることで、活力が漲ったぼくは、きみと様々なデートを重ねてきた。そのスポットへの往来に、いつも電車を利用していたのではなかろうか。その「ぼく」の「手」は、ビタミンでありエナジーでありエレクトリックパワーである「きみ」を受けとる最重要な接点なのだ。そのパンタグラフが壊れてしまったということはまさに致命的だ。もう二度と、上越新幹線でスキーに行くことも、湘南新宿ラインで海水浴に行くことも、秩父鉄道秩父本線で花見に行くこともできない。手と手が触れ合うことによる通電の効果がなければ、ぼくという電車は寸分たりとも動かないのだ。ひらがなの羅列が列車の荒廃感を、結句の字足らずがぼくの絶望感を現して余りある秀作だ。

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西中島東鳥

村弘氏穂の『日経下段』2017.4.1~

土曜版日本經濟新聞の歌壇の下の段の寸評
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