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村弘氏穂の日経下段 #51(2018.3.31)

さば缶を開けてふたりで食べている昼に昔が押し寄せてくる
(つくば 岩瀬悦子) 

 
 さば缶であれ何であれ、開けなければ絶対に食べる事ができないのが缶詰なのだが、わざわざ二句目で『開けて』ふたりで食べている、と詠んでいるせいだろうか。流通している現代のさば缶のほとんどは容易に開けられる構造なのだが、缶切りを用いて開けたような趣がこの作品からは感じられる。ゆっくりと開けて、ゆっくりと食している情景だ。そもそも、急いでむさぼりついていたとしたら、そこに詠草は生まれないだろう。下の句では時期を例えば『昭和』などと限定せずに『昔』としたのがいい。読者それぞれに定義がある『昔』のおかげで、読者それぞれにあるさば缶の追憶を重ねて読むことができるのだ。昔、父親がパチンコで獲って帰って来たさば缶を茶色い紙袋から出して一緒に食べた日の事や、昔、社内恋愛の相手とさば缶を会社の屋上で近くの小学校の鐘を聞きながら手作りのおにぎりと一緒に頬張った日の事や、昔、ダイエットに効果的だと聞いて買い占めた水煮のさば缶を妹と一緒に食べ過ぎて姉妹で二キロずつ太ってしまった日の事を思い出して、それぞれがそれぞれに懐かしむ事ができるのだ。また、結句を『押し寄せてくる』としたことで、止まらないノスタルジーが痛いほど伝わってくる。『思い出される』や『訪れてくる』ではここまでの共感は得られない。作者に押し寄せた『昔』は、しっかりと読者の胸にも打ち寄せてくるのだ。それはまるで、三陸沖に次いで脂肪含有率が多いとされる常磐沖を回遊しているサバに押し寄せてくる荒波のような『昔』といえよう。


スコップは夜中のコンビニは売ってなく埋める行為は衝動ではない
(奈良 渡辺春乃)

 行動心理学の応用によって消費者を狡猾に誘導しているコンビニの商品レイアウトの中にスコップが存在しないらしい。いうまでもなくスコップは衝動買いではなくて目的買いのカテゴリー商品だからだろう。たしかに冬の北陸の郊外や京都の舞鶴のコンビニで見たことが何度かあるくらいだ。この作品でのスコップは、あえて上の句で『売ってない』と詠い、下の句では衝動で買う行為と埋める行為の衝動をすり替えている点が面白い。また、夜中に売っていないコンビニではまず日中も売っていないはずなのだが、二句目でわざわざ夜中に限定している点も巧みだ。そのことによって読者は何かしらの不穏な空気を感じ取らされてしまう。ここには書かれていない真の『目的』にイメージを募らせてしまうのだ。作者はいったい夜中に何を埋めようとしていたのかとか、鋭利なスコップは凶器にさえなり得るのではないのか、などと。判断材料もないのにそのような勝手な想像を巡らせているうちに、不思議と心地良い疲労感を覚える。そして、糖分を欲する脳のためにレジで和菓子を買ってしまうようにピックアップして、こうしてわたしが歌評を書いてしまったわけだ。まるで計算し尽くされたコンビニの陳列棚のように、読者の心理に訴える技巧が詰まっている作品だ。


アイスティーの氷をごりごり食べている小父さんのいたスターバックス
(仙台 山上秋恵)

 木炭のデッサンで描かれている小父さんがチャーミングな一首。もちろん素性など一切わからないのだが、なんとも素敵な小父さん像が浮かび上がってくる。スターバックスコーヒーで紅茶を注文した時点でもう既に可愛らしいのだが、わざわざストローを取り除いて、直にコップに口をつけて、まだそれほど小さくなっていない氷を頬張って、大きな音を立ててかじっているのだから、もはや小父さんというよりは少年の所作だ。それは自宅の出涸らしの麦茶やカフェ・ベローチェの210円のアイスティー的な飲み方だが、残念ながらそこはセイレーンが君臨するスターバックスコーヒーである。小父さんは明らかにシャルル・ランデルが描いたセイレーンのように、太平洋上に浮いてしまっているのだ。遭難しかけていると言ってもいいだろう。そんな状況に手を差し伸べたくなるほどに『小父さん』は魅力にあふれている。しかしながら詠われているこの状況は遠かれ近かれ過去の事である。下の句の文体は倒置された上に過去形なのだから。この作品の詩情が切なさを纏っているのはそのせいだろう。現在は、そのスターバックス、もしくは、その小父さんは存在しないのだ。この作品の舞台は閉店した仙台駅や一番町のスターバックスかもしれないし、もし存在するとしても、もう小父さんが来店しないスターバックスのいずれかだろう。その下の句の倒置や、読後にもなかなかフェードアウトしない二句目の『ごりごり』というオノマトペも効果的だが、四句目の助詞の使用法もなかなか巧みだ。助詞ひとつだけのことではあるが、『小父さんがいた』ではなく『小父さんのいた』と詠まれている。そこで勝手に、小父さんで区切って体言止めを施して読ませてもらうと『小父さん 退いた スターバックス』という新たなペーソスが生まれる構造だ。やはり、小父さんかスターバックスはその場から退いたのである。スターバックスコーヒーは同業他社との差別化を図ると同時に、顧客の差別も粛然と行っているのかもしれないが、小父さんを排除する姿勢を貫こうとすれば、小父さんが根強く存続している土地からは、店側が退去を余儀なくされる事もあり得るのだ。この作品の背景には『小父さん』の哀愁と『スターバックス』への郷愁や懐旧が、ティバーナのシトラスのように切なく漂っている。



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