村弘氏穂の日経下段 #50(2018.3.24)

あらゆる場所の矢印を反転させてふたたびきみにはじめてあいたい
(横浜 安西大樹)

 上の句の世にも奇妙なストーリーテリングが読者を惹き付ける。そのシチュエーションももちろんだが、『ふたたび』と『はじめて』が同居する矛盾めいた下の句も魅力的な作品だ。『再び』とは当然ながら一度目の経験に基づいて使われる言葉ではあるが、仮に記憶が真っ新な状態に戻れば初回と同様の感激が得られるだろう。それは初めて買ったCDを聴く際に、再生ボタンを押したときに得た感覚のようなものだ。実際には、もう一度初めて逢うことは不可能だが、作者は脳内でその疑似体験を何度もしているに違いない。心理学でいうところの、記憶の第三段階で過去の感動体験を思い出す、という意味での再生をきっと繰り返していることだろう。そして、叶わない願いだからこそ切望している現状をあえて不条理に詠い上げているのだ。もしも世界中の同志を総動員して世界中の矢印を強引に反転させたとしても、あらゆる場所ということなどで、転回の指示標識やパソコンのBackSpaceや再生機器の巻き戻しボタンなどの、戻れという矢印も反転してしまうので、経験の連続体に変化は起こらない。『あらゆる』は逆転現象に逆転現象を重ねて、異界から現実世界に自らを引き戻すための巻首なのだ。初句七音や二、三句の句跨ぎ並びに結句の字余りによる破調は、意図的に散りばめられた演出といえよう。これら全ては無理なこと、叶わない希望を求めてしまう心の破調をあらわすための修辞のようだ。『あらゆる』で始まり『あいたい』で終わるこの作品に二つ置かれた、平仮名の第一行第一段の『あ』は、ふたりが最初に出逢ったシーンへの憧憬の象徴として効果的だ。

静物であったベンチに人物が座り始めて春の訪れ
(松山 園部 淳)

 静物であったベンチに、ヒトという動物が座ることで季節の変化を感じる。作者が有する、その感覚自体がもう詠み起こす以前に詩的だ。春を詠いながらも、ついこの前まで人が座ることもなく、待ち惚けて佇んでいた冬のベンチの冷たささえも伝わってくる。この季節詠の静と動がある情景は、毎年のように誰かしらが発表するさくらソングのプロモーションMVの中に出てきそうなシーンだ。また『静物であった』と前置きをすることでベンチがクローズアップされる構図でありながら、人物が座ったところで『静物であった』ベンチは絶対的に静物のままである点が実情として面白い。何も変わることもないし、擬人化されることもなく、ただそこにじっとしているだけの長椅子でしかない。この作品で擬人化されているのは結句の『春』なのだ。足音を立ててやってきた『春』が、ブランコをそっと揺らしたり、ベンチに腰かけて座面を温めたりしているのだろう。そう考えると初句にあえて『静物』を置いた意図は何であるかが気になる。もしかすると、公園のベンチでお弁当を食べているサラリーマンや、ひっそりと咲き始めている桜や、一人で遊んでいる砂場の子どもに、じっと見入っている作者が静物化しているのかもしれない。

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