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【芝居】の【描写】、その【効能】(第10回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ“広義の【芝居】”、つまり私が好んでよく用いる【描写】について、【我流】なりに【考察】を巡らせております。

 私の【認識】するところ、“広義の【芝居】”の【役割】は、「全部【理解】して欲しい!」という【心理】から生じる【問題点】、この数々から【作品】を守る――というものです。

 その【問題点】の少なくとも一つは、私の【認識】するところ『【作者自身】が【作品】を“心に響かない【説教】”に仕立て、さらには【作者】の【姿勢】についても「口(【言葉】)だけ【達者】で、【奥深さ】を持たない」と見せてしまいかねない』というもの。

 ではなぜ、“広義の【芝居】”でこの【問題点】から【作品】を守ることが【可能】になるのか――と申せば。

 「全部【理解】して欲しい!」と言わなければ、『“【優先順位】の低い【情報】”は、“伝わらない【観客】には伝わらなくてもいい【表現】”で示す』と考えることもできるというもの。であれば『【行間】という【概念】を活かす』という【方法論】が、【選択肢】に上がってきます。これは【奥深さ】を表す上で【有利】に働く考え方です――【表現】が『口(【言葉】)だけで終わらない』、つまり【間接表現】を備えるからです。

 そして私なりに申せば、“広義の【芝居】”とは、『【表現意図】を“【動き】という【間接表現】”に【翻訳】したもの』です。

 こう割り切ってみると、今度は【表現】をある種の【基準】をもって大別することができるようになっていきます。
 即ち、『【表現手法】として【静】と【動】、どちらを重んじるか』。

 例えば「全部【理解】して欲しい!」ための【直接表現】となれば、それは【作者】の気が済むまで、その一瞬の【状態】を【記述】することになります。そこに【時間】の【流れ】が織り込まれるわけではなく、ゆえに“【静】の【表現手法】”と私は【認識】するわけです。

 では、私が“【動】の【表現手法】”と位置付ける【芝居】はと申せば。

 “【芝居】という【動き】”には“【登場人物】や【物体】の【主観】や【行動原理】(複数)”が埋め込まれていて、その【状態】を例えるなら“【不可逆圧縮】の【エンコード(暗号化)】”ということが観えてくるわけです。

 もちろん【不可逆圧縮】ですから、【観客】全員が【デコード(復元)】できるわけではありません。ただ、『そこに込められた【意味付け】が(複数)【存在】する』という【間接表現】としては伝わりやすくなります。これは【現実】にも【存在】する【奥深さ】にも通ずるものですね。

 もちろん、【容易】な【表現】とは申しません。

 “広義の【芝居】”は【登場人物】の【人格】、ひいてはその【背景】にある【作品世界】全体の【原理原則】を【不可逆圧縮】で【エンコード(暗号化)】した上に成り立っているわけですから。

 ただし、だからこそ『“【表現】に際する【容易さ】を求める【作者】”』の【作品】からは【差別化】しやすいことになりますね。

 この【位置付け】とその【難度】を踏まえた上で。
 “【動】の【表現手法】”として“広義の【芝居】”を捉えるに、【我流】の【定義】は、“【シーン(状況)】の【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”です。これは【シーン】の【存在意義】を踏まえれば、自ずと【優先順位】は定まります。
 そして“【変化】や【落差】の【原因】となる【動き】”であるからには、“【時間経過】の【表現】”は【不可欠】ということになりますね。

 ですが“【静】の【表現手法】”つまり【直接表現】では、『【静止】した【物体】や【状態】を、その【背景】(これも【過去】であって【静】に分類できる)を交えつつ【説明】または【描写】する』わけです。ここに【時間経過】の【概念】は、ないとは申しませんが【希薄】でありましょう。

 これに対して『“【動】の【表現手法】”としては、“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】する【必要】に迫られる』ということになりますが。
 これを“【表層】の【直接表現】”としようにも、『【動き全体】を一つの【塊】として括れない』ことになります。となると、【動き】の全体と細部一つ一つ、それぞれに込められた【意図】をはじめ、そこにある【情報量】は【膨大】になります。しかも全てを【表層】で【表現】することになるわけです。つまり【表現】として【現実的】ではなくなります。話が全くと言っていいほど進まなくなりますから。

 ここに“【行間】の【表現】”を用いる【必要性】は【確定】、よって【間接表現】としての“広義の【芝居】”は【存在意義】を【確定】するわけです。

 また、“広義の【芝居】”という“【動】の【表現手法】”においては。
 『“一つの【動き】”の中にある【時間経過】さえ【細分化】して【認識】、【再現】する』からには、【作者】は“【作品世界】の【現象】”に入り込んだかのごとく、つまりは【演者】と同じように【役作り】と【演技】を(【物理的】な【動き】の【寸前】まで)【展開】することになるわけです。私が“広義の【芝居】”という【表現】を用いる由縁ですね。

 もちろんここまで【動き】にこだわるのは、私なりに考える【意義】あってのことです。

 前回はこの【意義】について掘り下げてみました。

 ヒトを含む動物の“【本能的】な【特性】”まで【考慮】に入れるなら、【動き】というものは【意識】を惹き付ける上で極めて【有用】です。ならば【描写】の上でも【利用価値】は大きいことになりますね。
 さらにここまでの内容を踏まえるに、ここで取り上げる【動き】は【心理】や【背景事情】などをも【間接表現】として込めた“広義の【芝居】”となります。

 “生きている【人間】としての【動き】”をその【心理】や癖と絡めて引き出したならば、【観客】の【意識】には『単なる【記号】ではなく、生きた【人間】の一部としての姿とその【動き】』として映りやすくなるのでは――という、これは私の【考え方】です。

 今回はその続き。よろしくお付き合いのほどを。

 ◇

○【動き】の【意義】、その重さ(その2)

 これを逆に捉えるなら、こういうことです。
 『【静止状態】の【対象】に、特段の【工夫】もなく【言及】する時、その【表現】は“【記号的】で【生命感】のない【説明】”と映りやすい』。

 ここで、私が【予想】している【反論】があります。
「【科白】は【人間】ならではの【動き】じゃないか! 【科白】さえあれば【観客】の【意識】を引き付けられるはずだ!」

 この【反論】、一部で的を射てはいるのですが、残りの部分で【地雷】を踏み抜いてもいる【考え方】――と、私は【認識】しております。

 確かに【科白】は“ヒトらしい【動き】”です。なのでヒトの【意識】を引き付けやすい――というところまでは【事実】です。ここを【否定】するものではありません。
 ですが、『【科白】さえあれば』という【考え方】が【地雷】を踏み抜いてもいる――と私は考えるのです。

 【科白】は、ただ書く分には【簡単】です。【内容】を【考慮】せず【手っ取り早く】書くことも、できてしまいます。
 一方もちろん【潜在能力】として、【科白】には【人格】の片鱗も【心理】の一端も覗かせようはあります。ただし、そういった【背景】まで込めるとなると【難度】は一気に上がります。

 さて、ここでの【反論】のように“【科白】さえあれば”、という【状態】を考えてみましょう。つまりは『【手っ取り早く】書いた【科白】だけが目立ち、他には特段の【工夫】も【技巧】も見られない【場面】』というものです。
 この【場面】において、目立つものは“【科白】という【存在】”だけです。“【科白】さえあれば”と表すからには、他には特段の【工夫】を施さないからです。また同じ【理由】から、【科白】の中身にも【工夫】はありません。【手っ取り早く】書いただけのものだからです。

 この【状態】、【言語化】を試みるなら『目立つところにしか【認識】すべきものがない【状態】』というところですね。

 これを【舞台演劇】で例えるなら『【下手】な【書き割り】』が近い【存在】と、私は【認識】しています。『【表現意図】の【核心】丸出しで、“それっぽい【記号】”をそれっぽく並べただけ』、周囲の【描画】で【フォロー】するわけでもありませんし、その周辺にいる【登場人物】だって【大根芝居】丸出し、こちらの【フォロー】ももちろんありません。

 この【状態】で、“それっぽい【記号】の並び”に【観客】が【存在感】や【奥深さ】を感じるでしょうか。特に【観察眼】や【審美眼】を鍛えた、【上質な観客】はどうでしょうか。私としては、『【手抜き】丸出しの“【不誠実】な【創作姿勢】”』を観て取られてしまう――と【危惧】するところです。

 『【手っ取り早く】、【偽りの信頼】をでっち上げて【相手】を【罠】にかけようとする“浅はかな【小悪党】”』、そういう【人物像】を、私はこの類の“【不誠実】な【創作姿勢】”には重ねて観てしまいますね。『観えないところは最初から作らない【手抜き】を晒しておきながら、【没入】や【評価】を【観客】から【搾取】しようとする【邪念】』ばかりが鼻につきます。これが私の【認識】する【地雷】です。

 逆に、【人格】の片鱗や【心理】の一端を覗かせるような【科白】は、【心理】をはじめとする【背景】や【前後関係】を踏まえて描かれているものです。『観えないところに、しっかりした【作り込み】を仕込む【姿勢】』なくしては、この類の【存在感】は宿りようがない道理です。最初から【存在】しないものには、【存在感】は宿りようがないわけですから。

 逆を申せば、『気付きにくいところにも【存在感】がある』からこそ、【観客】は【奥深さ】の【可能性】にも思いを巡らせ得る――と言えそうですね。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【科白】も含め、『【動き】でさえあれば何でも“【動】の【表現手法】”として【上質】たり得る』などということはありません。
 『【手っ取り早く】でっち上げた【表現】から、込めてもいない【間接表現】が匂い立つ』などということは【期待】しようがないのです。

 ここで私として【予想】するのは、『じゃあ【間接表現】の【利点】だけ手に入れよう』という【発想】ですが。もちろん私はお勧めしません。
 これについては、次回お話ししてみましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

(次の記事)


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