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【属性】→【エモさ】、その【行間】(第9回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、ここのところ【登場人物】を切り口として、『【記号】と【エモさ】の結び付き』とその【応用】について【考察】を巡らせております。

 ここまでの【考察】で判明してきたことは、つまりこういうことです。『“【エモさ】を引き出す鍵”として多用される、“【属性】を始めとする【記号単体】”には、【エモさ】は宿っていない』。

 これを【観察】していくに、『“【属性】という【記号】”と【エモさ】の結び付き』は、『【行間】と呼ばれる【情報】の【圧縮】ツール』と同じ【原理】で【説明】可能――と私は【認識】しております。

 【表層】に配置した【表現】、この【背景】に【存在】する【事実関係】――もっと申せば【共通認識】を通じて、『さらなる【意味付け】を書かずして描く』という【構造】は、【属性】にも【行間】にも共通するというわけですね。

 つまり“【属性】という【記号】”に始まるこの話、実は【行間】を始めとして【作品】への【没入感】を醸す上でも、押さえておくに値する【事実】を内包していることになります。

 即ち『【現実】において【存在】する【法則】』に従うからこそ、『【観客】は【作品】内の【事象】に対して、【擬似体験】としての【現実味】や【存在感】を覚える』わけですし、『【登場人物】に対して、【存在感】を覚えたり【感情移入】したりできる』わけです。

 前回は以上の流れをまとめつつ、【作品】への【没入感】に繋がる【完成度】、これを向上させていく道筋について【考察】を巡らせてみました。

 一言でまとめることを試みるなら、その道筋は『【行間】まで含めた【作り込み】』というところですが。
 この【効能】は、一見して【地味】ではあります。ですがこれは、『解る人ほど【奥深さ】を【理解】できる【意味付け】』を、『解る人だけが読み取れる【行間】に【配置】する』という【構造】、これを【作品】に持たせられる――ということでもあるわけです。

 つまり『【奥深さ】を追求していながらも、くどくない』という【表現】の【可能性】に、こういった【姿勢】は繋がっていくわけですね。
 もちろん容易なことではありません。【鍛錬】とその元になる【向上心】は必須です。

 ということは、この【鍛錬】や【可能性】については、“【属性】という【記号】”に向き合う【姿勢】が【影響】していくことになります。

 今回はこの【姿勢】について【考察】を巡らせてみましょう。

 ◇

 ただし、ここで【要注意】。
 『【キャラ属性】をはじめとした【記号】は、【表現】の【情報量】を稼ぐ上で手っ取り早い』ことは【事実】ではあります。ですが同時に、『手っ取り早く稼いだ部分の【情報量】を、自前で満たす【鍛錬】の機会を逸失している』ということでもあるわけです。
 また、この場合には『【記号】に込められた個々の【情報】に眼を向けない【姿勢】に繋がる』【可能性】も【存在】します。ということは、『【人格】をはじめとして、対象を【観察】して【再現】する能力』についても【鍛錬】不足をきたす【可能性】は上がっていく――ということもありましょう。

 これは【作品】そのものよりも、【作者】の【姿勢】に関わることではあります。ただし【作品】は【作者】なくして生まれることはありません。【技量】にしても【発想】にしても、“【作者】としての【実力】”を【向上】させていかずして、【作品】の【完成度】が勝手に【向上】することはないのが道理です。

 逆を申せば、『現状の【技量】』が全てではありません。このため、『【完成度】を【向上】させていく上では、【作者】が【向上心】を抱いていること』は必須――と私は考えます。
 もちろんこれとは反対に『薄っぺらさに眼を向けもせず、ドヤ顔を晒す【姿勢】』に関しては、救済の【可能性】も、手を差し伸べる【必要性】も感じません。【他人】がどうしたところで、【本人】の【意志】なくしては何一つ変わりようがないからです。

 つまりは、『【失敗】の【可能性】を覚悟しながら、【情報】を自前で【観察】し【充填】しようとする【姿勢】』には、『【向上心】と【将来性】が大いに期待できる』ということでもあります。この【過程】で、『【記号】の【共通認識】を【観察】し【理解】を深める機会』に【挑戦】する【可能性】は相応に高そうですね。

 従って、こういう【挑戦的姿勢】を持つ【作者】には、『【記号】の【共通認識】をより巧みに駆使する【技量】』というものを育成する【可能性】、これを充分に備えている【可能性】があるわけです。

 つまり『【記号】を駆使するには、一旦“【記号】の【共通認識】に頼ること”から離れるのがむしろ早道』ということにもなりそうですね。

 またこうやって、『【記号】に対する【共通認識】』を『【現実(リアル)】に【存在】する【事実関係】』からも得ていくならば。
 この【共通認識】を利して『【作者】が用いる【記号】』には、『強力な【一貫性】が宿る』ことにもなりそうです。これは【行間】を作り込むのに、非常に有用な考え方――と私は【認識】しております。

 何のことはない、『自ら【困難】に【挑戦】する者ほど、【強さ】をより着実に【獲得】していく【構図】』は、ここでも活きているということになりますね。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 【エモさ】を醸す上で、“【属性】という【記号】”は大いに有用ではあるわけです――ただし醸すのは“借り物としての【エモさ】”ではありますが。
 自前で【エモさ】を醸し出す、あるいは【提案】することを望むなら、“【属性】という【記号】”が果たす役割を、自ら【開拓】する必要に迫られることになります。ちょうど『“【エモさ】を借りてくる【二次創作】”から、“【エモさ】を自ら【提案】していく【一次創作】”へとシフトしていく』というイメージが近そうではありますね。

 この時、【現実(リアル)】に【存在】する【事実関係】にも
眼を向けてみれば、『【記号】に対する【共通認識】』、言い換えれば『【エモさ】を醸すための勘どころ』にも【理解】を深めることになろう――という【予測】も働きます。

 何にせよ【向上心】の威力は絶大――というのが、ここ一連の【考察】でも改めて感じるところですね。

 次回はまとめとして、『【属性】を利用した【エモさ】の表し方』を【考察】することにいたしましょう。

 よろしければまたお付き合い下さいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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