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『コンテンツの秘密』川上量生 要約

 4月の新刊、ドワンゴ社長の川上量生さん『コンテンツの秘密』。何かとコンテンツコンテンツいう時代なので、コンテンツこれは必読コンテンツなのではないかと思う。大変参コンテ・・・いや参考になったのでメモ代わりに要約コンテンツを残す。ひたすらコンテンツ・・・コンテンツ・・・です。

「スタジオ・ジブリプロデューサー見習い卒論」と言うとおり、論文のような形で構成されており論理が明快。序章にあたる「はじめに」では次の問題提起がなされ、それに答える形で本論が展開される。

・コンテンツとは何か

・クリエイターとは何か

・理論型と直感型、それぞれコンテンツの作り方にどんな違いがあるか

・コンテンツが受け入れられる、または受け入れられない要因は何か

・天才とは何か

 スタジオ・ジブリ内の体験が豊富に語られているので、監督の宮崎駿さん、高畑勲さん、プロデューサーの鈴木敏夫さんの話がよく引用されるのが本書の特徴。

 第一章は「コンテンツ」というキーワードそのもの分析と解説。スタジオ・ジブリプロデューサー見習いとドワンゴ社長という経験から、またクリエイターというよりはIT側の人間という立場からの視点で、「コンテンツ」とはどういうものか、その実態、本質に迫る。

 コンテンツフォーマット、二次利用、アリストテレスによるコンテンツの定義などの基本事項から入り、コンテンツとは何かということについてわかりやすく解説するところからはじまる。次にスタジオ・ジブリの作品を例に、「情報量」という観点からよいコンテンツの姿とは何かという疑問を掘り下げる。

 一般的に「情報量」が多いほどリアリティが増し、クオリティが上がると考えられているので、現在のアニメ界では絵の情報量を上げる消耗戦になっているという。しかしただ情報量が多いだけでは、よい作品とはならない。宮崎駿のアニメは確かに情報量が多いのが特徴だが、情報量が多い作品は他にもたくさんある。監督の作品が他の多くと違い、何度も視聴され、海外でも評価が高いのは、ただ情報量が多いことだけが理由ではない。では、他に何が要因としてあるのか。その部分に迫っていく。

 客観的情報量、主観的情報量という著者独自ワードが設定されており、これによってよいコンテンツの本質というものをうまく説明してくれている。そしてこの章での結論は、よいコンテンツとは「小さな客観的情報量によって大きな主観的情報量を表現したもの」であるということ。第一章で述べられたこれらコンテンツについての概念を前提に、以降より深い議論が進められる。

 第一章ではアリストテレスの言を元に「コンテンツとは現実の模倣である」と仮の定義をしたが、第二章ではコンテンツとは本当に現実の模倣であるのかという問から始まる。それに対する答えは、かんたんに言うと「脳の中にある」という言葉に集約される。われわれは現実世界の情報を、すべて受け取って処理するのは無理(頭がパンクする)なので、大部分の情報は切り捨て、重要なところだけを単純化して抜き取るしかない。われわれは、そうやって得た抽象的な概念でもって現実というものをおぼろげにわかったつもりになっているにすぎない。クリエイターは、その仕事の中で、人々の頭の中にある抽象化された情報をわかりやすく具現化して表現する、つまり現実世界を模倣するのではなく、正確には人々の脳の中にある現実世界のイメージを模倣する、というのが正しい。

 脳の中のイメージとは大部分、実際の現実世界とは異なる。つまり人それぞれが見たいように見る。ただしその見方にも普遍的な法則のようなものがあって、例えば葛飾北斎は人間の脳が円や整数比のモデルによって事物を見ることを発見したため、定規やコンパスを駆使した幾何学的な作風によって脳内イメージの再現を提供したという。そのような、主観的情報といってもある程度普遍化されている「天才の鉄則」のようなパターンは、宮崎駿さんの引退会見時の言葉から、「世界のひみつ」という名が与えられる。

 「世界のひみつ」は「風や、人の動きや、いろんな表情、からだの筋肉の動きなどにかくされている」と宮崎さんは言っている。「風立ちぬ」のカストルプという人物は、元スタジオ・ジブリ海外事業部のスティーブン・アルパートさんという人物がモデルだというが、宮崎さんはアルパートさんの似顔絵をうまく描くには鼻を大きくすることがポイントだと発見した。ジブリの多くの人が、鼻の大きさという特徴によって彼を認識していたため、その似顔絵はスタジオ内の誰もが「似ている」と評する出来だったという。

 要は、「人間の脳がどれだけはしょって世界を理解しているか、もしくは人間の脳がどれだけのひみつだったら理解できるのかという能力の限界を示しているもの」、それが「世界のひみつ」であるという。それは味覚のようなものでもあり、時代性や国民文化などによって多様性と普遍性を備えており、ある時代ある文化圏に存する人たちにとってのある程度普遍化されたパターンが存在する。「世界のひみつ」の一般性についてはそのように考えればよい。

 このような観点から、第二章の結論は「クリエイターとは脳の中のイメージを再現する人である」とする。続いて、だからクリエイターは3つのことに苦しむ、すなわち

・脳の中のイメージを再現する技術的な難しさ

・脳の中のイメージを見つける難しさ

・自分の脳にはないイメージをつくる難しさ

この3つだ。現代のクリエイターがこの問題にどう対応しているのかというクエスチョンを提示して次の章へと進む。

 ここまでの展開で、優れたコンテンツとは、人間が普遍的に持っている脳内イメージを再現したもの、という仮説が導かれた。クリエイターは「世界のひみつ」を、まず発見し、次に再現することが使命だ。しかし、コンテンツのあふれた現代となってはすでにほとんどの「ひみつ」が発見し尽くされている。そして、それを再現する手法さえ、いまとなってはワンパターン化してしまっている。いま、よいコンテンツを生み出すには、まだ誰も気づいていない「ひみつ」を発見し再現するか、すでに発見された「ひみつ」を、パターンをズラして再現するかしかない。そんなクリエイターたちの試行錯誤を、第三章では分析する。

 まず具体的な試行錯誤例に入るまえに、何かをクリエイトする際の基本を解説する。第一は「わかりやすさ」。よく撮れた写真、黄金比を利用した構築物、歌詞がはっきり聞き取れる声質のヴォーカル、メロディの音圧を上げまくった音割れしまくりの着メロなど、感度の高い人達は、プロやマニアの人たちが軽視しがちな、シンプルな「わかりやすさ」に反応し支持する。そしてわかりやすいということは、すなわち脳内イメージの再現に成功しているということだから、コンテンツの良さとしても重要だということ。

 そして、コンテンツはワンパターン化し、陳腐化する傾向があることを踏まえる。第一章、二章で見たとおり、コンテンツは現実世界を模倣する学習材料としても機能するものだから、「このパターンから学習するものはもうない」と思われるほど定型化されてしまったものはもはや評価の対象にならない。陳腐化して飽きられたパターンは、もうそれだけでは使えないから、何か工夫をこらすしかない。

 ではどうするのか。いくつかの方法論が紹介される。どの仕掛けも「わかりそうでわからないもの」にするという狙いで使われる。それは、人間が興味を持つ対象として根源的な性質であり、陳腐化しないための条件である。

・パターンに引っかかりをつくる

『崖の上のポニョ』の作画はまっすぐな線で書かれていない、わざと悪文を入れる中島梓さんの小説、ノイズを入れる楽曲制作

・パターンを予測させない

脚本ができていないのにつくりはじめる、トリックを考えずに推理小説を書く(後でつくる)

・誰も見たことのない表現手法

『かぐや姫の物語』水彩画的な背景と水墨画タッチのキャラクターによる一体感(うまく合うかわからないけど挑戦した)

・大作主義と高そうなカット

『タイタニック』コンテンツが溢れていると選ぶのが大変なので、単純に高そうなヤツ、立派そうな、品格ありそうなヤツは選びやすい。

 次に、高畑勲監督が説いた美術史に見られるサイクル現象を引用し、それをコンテンツ産業のサイクルに読み替えて解説する。

 コンテンツとして表現する「対象」を選び、素朴にリアリズムで描くことからはじまる「アーカイズム」ー

表現方法が確立され、古典となるべき完成形が誕生していく「クラシック」ー

もう古典ができてしまったので、細部にこだわるしかなくなった「マニエリスム」ー

もはやすることがなくなってゴテゴテ飾り立て、何を対象にしていたのかさえ忘れてしまった「バロック」。

 コンテンツ産業もこのような流れを大体たどっているという。今はどの時期なのか、宮崎駿さんは「マニエリスム」だという。

 次に、クリエイターはどこで勝負するのか、という議題に。漫画家や監督には、ストーリーで勝負するか、表現で勝負するのか、どちらかのタイプがある。手塚治虫さんは、アニメーション表現では宮崎駿軍にかなわないと思ったから、面白いストーリーのマンガで勝負することに決め、鉄腕アトムがアニメ化したときも動きの少ないマンガ的雰囲気を残したものにした。このように、たしかにストーリーは、アニメでもマンガでも大事だが、著者の分析では、最終的にはやはり表現にこだわりにいくのがクリエイターという人種だという。なぜなら、ストーリーの型より表現の型のほうが圧倒的に多いからだ。ストーリーは表現方法に比べてパターン化されやすくかつその数も知れている。ウラジミール・プロップ『昔話の形態学』でだいたい分類される通りだという。だから、新しいコンテンツをつくりたいと思った時に、クリエイターはより幅の広い表現方法の探索に踏み込むのが自然だということだ。

 宮崎駿さんの本質も、ストーリーつくりよりは表現方法にあり、言ってしまえばストーリーなど関係ないのだという。『魔女の宅急便』キキが再び空を飛べるようになったのはなぜかといくら議論されたか知れぬが、その原理など最初から用意されてなく、観客が「飛べー」と祈るから飛んだのだということらしい。つまり脳内イメージの再現。それができれば、観客の論理的説明に関する興味などたちまち拡散してしまうのだから、用意する意味がないのだ。これを宮崎駿マジックといい、このようなタイプの映画を「思い入れ」の映画という。対して、『寅さん』のような日本の古いタイプの映画は「思いやり」の映画といい、観客が登場人物に感情移入せず(思い入れせず)突き放した態度で見守る(思いやる)から、こういった魔法は使えない。宮崎駿マジックは、一見理不尽なようで、現実だってそういうものじゃん、という納得もできるから、疑問なく受け入れられるのだという。いつだって現実世界では、十分な説明もなくいろいろなことが起こり進んでいって、われわれは納得できようができまいが受け入れて進むしかないのだから。

 第三章の終わりにまとめられている主張は重要で、本書全体の要約といってもよく、それ以外の章の内容はその主張を裏付ける具体的なエピソードと、より深い考察の集合と見ることができる。主張は要約すると次の通り。

・脳の中のイメージをコンテンツとして再現するのがクリエイターである

・クリエイターはオリジナリティを求められるが、脳内イメージは答えがひとつに収束する(ワンパターンになりがちな)傾向がある

・答えがひとつになりがちなコンテンツ作りの世界で、クリエイターは違う答えを出さなければならない

・美術史にみられる、アーカイズムークラシックーマニエリスムーバロックという流れはコンテンツつくりの変遷の中にも見られる。それは脳の中のイメージがオリジナルを求めて再現が比較的容易なものから作品となっていくプロセスである

・コンテンツの要素である「対象」と「手法」では「手法」のほうが多様性があるので、クリエイターは最終的には「手法」を追求する

・コンテンツは、ユーザーから見た場合、それを媒介とすることでユーザーの中に再現される脳のイメージが、人間の情動と結びついていることが重要

 以上の論が著書全体の骨子となる。これらを導いた上で、第三章の終わりでは次のような結論を述べる。

 ー優れたコンテンツはいかにユーザーの情動を揺さぶるかで決まる。ただしコンテンツは現実社会をシミュレーションする教材であるという性質もあり、同じ教訓は何度も経験されると「学習済み」とみなされて価値が下がってしまう。また、アダルトのように動物的情動のみを換気するようなコンテンツも、教材として役に立たないので、機能性の面で需要があったとしてもコンテンツとして重要なものとみなされることはないー

 第四章はこれまでの内容を踏まえて、コンテンツの再定義をするところからはじまる。これまではコンテンツとは脳内イメージを再現するものという理解で論じられてきたが、そもそもイメージなんてきちんと再現できないことがほとんどだろうから、脳内イメージの代わりに「ヴィジョン」、再現の代わりに「表現」という言葉を用い、「コンテンツとはクリエイターのヴィジョンを表現したもの」と定義する。加えて、ヴィジョンとしての情報量と、表現されたコンテンツとしての客観的あるいは主観的情報量は異なるという性質もポイントだと述べる。以上の新しい定義をもとに、本章では優れたクリエイターとは何か、天才とは何かという点について考える。

 多くの人が制作に関わるコンテンツ制作の現場においては、いったい誰がクリエイターなのかという定義があいまいになる。コンテンツのアイデアを出した人か、実際にコンテンツを制作する実働部隊か、それを広報する人か、二次利用の制作に関わる人か・・・・作品は作家ひとりではつくれず、すべては共同作業なのだから、誰が本当にクリエイターなのかわかりにくい。この疑問に対しては、映画監督という存在を例に答える。

 監督という立場は、ある意味指揮さえしていればスタッフが勝手に作品をつくってくれるから、誰でもできるとも言えると、鈴木敏夫さんは言った。監督の仕事は主に3ステップある。1表現の方向性を示す、

2得られた表現を採用するか作りなおすかきめる、

3作りなおす場合は1にもどる、だ。

 1で任せると言って2ですべてOKするのであれば誰でもできるから、ある意味だれでも監督はできるというわけだ。しかし普通はそうはいかない。監督ははじめに理想のヴィジョンを描く。それを有限のリソースで描くため、どうしても理想からは遠ざかる。よってどれだけ元のヴィジョンから離れぬようにするか、その追求に情熱を捧げるわけだ。そして、すべての表現の方向性は、そのヴィジョンにもとづいて定まっていく。つまり、どんなに優秀な製作陣が揃っていても、元のヴィジョンを描いた人物がいなければ、制作は進まない。だから監督とはオリジナルヴィジョンを脳内に持つ人物であり、有限のリソースを駆使して、いかにヴィジョンを原型から崩さずに作品を物理的完成に持っていくか、その全過程までシミュレーションする人物である。だから、いないと何もはじまらない。オリジナルヴィジョンを持ち、いないと制作が進まない存在。これがクリエイターというあいまいな存在を見分ける上での重要な要素だろう。

 ここからアニメと映画の違い、実写がアニメに近づいている現象、CG手法に関する考察などを経て、本書最大の興味とも言える創作の秘密に迫る。結局、クリエイターはどうやってコンテンツをつくっていて、オリジナリティとはどうすれば生まれるものなのか。理性と感性、どちらを優先するのか。

 分析によれば、本当にゼロからオリジナルを生み出しているクリエイターはいないというのが事実だということ。クリエイターは、おおよそ過去に自分が経験したパターンを引き出しにコンテンツをつくる。自分の知っているパターンの組み合わせでコンテンツを作るということは、自分の脳内でヴィジョンを完全に描けるということ。反対に、自分の脳内にヴィジョンがない場合は、試行錯誤が必要になる。

 多くのクリエイターは、ヴィジョンがなくてもつくりはじめる。自分の頭の中だけで完結できるヴィジョンならば、凡庸なものである可能性が高いから、オリジナリティを得るために、あえてヴィジョンをつくれないパターンのコンテンツに挑戦する。この場合、クリエイターはほとんどランダムに試行錯誤している。人間の脳は新しいものを生み出すのは難しいが、すでにあるものの良し悪しを判断するのは得意というわけで、戦略として、試行錯誤の部分を誰かに任せるというのがあるらしい。誰かにアイデアを考えてもらって、自分はそのいい部分だけを採用してコンテンツをつくるというのだ。なんと一流のクリエイターほどこれをやるという。きっかけとして他人のアイデアを借り、自分のヴィジョンに近いか、感性で良いと思ったものを材料にコンテンツをつくる。例として、宮崎吾朗監督が父駿さんの作品を元に制作した『ゲド戦記』をあげる。

 最後に「天才の定義」について述べる。アメリカでは作品をつくるときにいったんプロトタイプを全部つくって、それをスタッフみんなで吟味して改良していく。この方法では天才がいらないという。実物をみながら全員の力で推敲できるので、クオリティが上げやすい。最初にプロトタイプをつくれる資金とお金が豊富な米の現場だからこそできるやり方。

 これに対して、日本は人材もリソースも及ばない。だから宮崎駿のような天才を擁して戦うしかないという話だ。この場合の天才とは、以上のような叩き台議論を自分の頭の中だけでできる人、つまり実際につくらなくても脳内でシミュレーションできる能力を持った人だと定義される。自分のヴィジョンを表現してコンテンツを作るときに、どんなものが実際にできるかをシミュレーションする能力を持っている人を、天才という。

 本章の結論は「オリジナリティとは何か」という問に答える形で終わる。クリエイターの行う創作のプロセスは、過去の経験を元にパターンを組み合わせてアウトプットしている。それだと、ただのアレンジパターンを生み出しているわけで本質的に価値ある何かを生み出しているとは思われにくいが、それでも確実にクリエイターは何か新しい情報を生み出している。それは、オリジナリティという言葉で説明され、クリエイターは以下のパターンでオリジナリティを作品に付加することで、コンテンツを価値あるものに仕上げる。

・脳の中のヴィジョンを再現する能力が技術的に不足しているため、偶然に、なにか違うものができてしまう

・意図的にでたらめな要素をいれてコンテンツをつくる

・パッチワーク的に自分がつくっていない要素をパーツとして利用する結果、自分がつくっていない要素が原因で、奇跡が生まれる

・いままでの自分が知っているパターンを切り貼りして、新しいパターンをつくる

「これらが、コンテンツにオリジナリティがあるように見える原因である。それは本質的にはすべて偶然であるか、もしくは既存のものの見方を変形したものである。」

これが最終章の結論となっている。

 この後におまけとして、チュンソフトの中村光一さんと任天堂の岩田聡さんに本論を見てもらった時のエピソードを紹介している。このふたりだけが、コンテンツ論としてちょっと足りない部分があると指摘されたのだそうだ。その内容については書かれていないが、おふたりともゲームクリエイターであることから、ゲームというコンテンツが備える「双方向性」という視点から何かを指摘したのだと思われる。本書で扱われた映画やアニメ、音楽といったコンテンツとゲームとでは本質的に異なる部分がある。ゲームやウェブサービスといったインタラクティブ性のあるコンテンツを含めた場合、もっと論ずべきことがあったのだということだろう。その反省か、次なる研究への課題としてか、ここではコンテンツにさらなる定義を追加している。まず、「コンテンツとは双方向性のない遊びをメディアに焼き付けたものである」と言って、続いて、ゲームやウェブサービスのように双方向性を付加することが可能になった現代では、上の定義はもっとシンプルに「コンテンツとは、遊びをメディアに焼き付けたものである」と定義されるという。これで本は終わり。

お疲れ様でした。読んでくれてありがとうございます。気になったら本書を読んでみてください。

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