【RP】音楽の関連性・影響とは?〜ミニマルミュージック→ジャズ→クラシック を例に〜

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

<はじめに>
先に投稿した2つのnoteでは、これから書くことが考察や思考のきっかけになっているにも関わらず、話題が広くなり過ぎるため書く事ができませんでした。
既出部分を完全に外すとそれはそれで意味がわからなくなるため、一部は引用しています。
また、「ミニマルミュージック→ジャズ→クラシック」という順番はが自分が辿った音楽遍歴順で、ジャズと書いてはいますが王道のアメリカンジャズではなく、日本でNu JazzやClub Jazzと呼ばれていたものです。
これをジャズと呼ぶかどうかすら怪しいのですが、まあ仮にジャズとした場合は角野氏がラボで語られた影響とは逆順になり、そのことが音楽的影響のわかりやすさにも繋がるためそのままにしています。
また、一連のことは「わらしべ長者」のように沸いた興味と偶然によって続いていくので、まずは時系列順に書いていきます。

<事の次第>

最初の「わらしべ」はミニマルミュージックで最も知られているスティーヴ・ライヒ「18人の音楽家のための音楽」で、以前のnoteに個人的な関わりを書いています。

ストレスで半年に12kg痩せて精神状態のダメージも最悪になったことがありました。
(中略)
精神が本当に疲弊していると感情が動かされる様な曲は全く受け付けないのです。
テレビから流れてくる普通の音楽も含めて。とはいえ、静かな曲だったら良いのかというと、そうでもなく。。。
どういう感覚が当時に近いのか考えてみたのですが、最近「サウナで整う」という言葉を使いますよね。
「Music for 18 ~」はまさにこんな感じなのです。自分の精神をチューニングするみたいな。。。
「Music for 18 〜」は静かに始まりますが、一定のビートによってある種の緊張感・ドライブ感を持っています。
それが、1曲60分弱という長い時間のなかで潮の満ち引きのような大きな緊張と弛緩が訪れ、その弛緩のなんとも言えない開放感がカタルシスになるのです。
泣くことでデトックスやカタルシスの効果があると言われますが、緊張と弛緩との落差はダメージがある時には耐えられません。
一方、音楽の要素がミニマルでグレデーションのように小さく変化していけば、負担が少ないまま緊張状態・弛緩状態への変化が起きます。
クライマックスの部分では感情を伴わない身体的な切迫感や緊張感が結構強く働いていて、それがゆっくり弛緩していく結果、熱いサウナの後に整う感じや、映画を観て大号泣した後のすっきり感に近くなるのではないでしょうか。

解釈とイノセントな表現性が統合に至る兆し
~角野隼斗氏とフランチェスコ・トリスターノ氏による二つの公演からの思考的展開~

4/22には15年ぶりに日本で演奏されたコンサートに行くことができ、それはそれは感激しました。
6/1 NHKクラシックTV 「サバンナ高橋とクラシックはサウナ?」では、私が上記に書いた「サウナで整う」という言葉とともに「ラヴェル:ボレロ」を用いてその効果が説明されていました。
「ボレロには確かにミニマルミュージック的な要素を感じる」と上記のnoteにも記載しています。
また、均等なリズムによる整う効果として、バッハの「G線上のアリア」も紹介されていましたが、こちらも「変異しつつ〜」で「バッハ:インベンション第1番」に対し「抑揚が抑えられたテンポ感に、それまでざわついていた気持ちが整っていったのです(以前の投稿書きましたが、心身不調時にミニマル音楽で「整った」のと同じ効果)。」と記載しています。
番組ではその他に、リズムやグルーヴの効果とは違うメロディ的な「整う」アプローチとして「ドミナント進行」が紹介されていました。
トニック・ドミナント・サブドミナントという分類があり、コードとして
も決まっている様ですが、清塚信也氏のご説明では「緊張(ドミナント)→トニック(解放)」という生理的感覚がメインだったので、コードや音楽的知識がなくてもすごく納得できるものでした。
これがもう…私の中では大ヒット!!笑
その後ことあるごとに「緊張(不安定)→解放(安定)」を意識することになったのです。

翌6/2のかてぃんラボ(有料プログラム)「かてぃんラボ3周年ありがとうQ&A」では、分散和音(分散コード)についても語られていました。
以前も語られていましたが、その分散和音を重ねるというところが複調にも近いとして紹介されていました。
一つの和音である響き・ハーモニーとして聴くのか、メロディを伴う分散された音なのか、素人にとっては印象が全く違う音楽にしか聴こえてこないのですが、コードの知識がある方(さらに絶対音階がある方)にとっては、一度に音を出すのかバラバラに音を出すのかの違いはあっても、音の組み合わせとして同じことが認知できるということです。
さらにはそのコードの別の要素をぶつけている(複合的になっている)所からは、単なる不協和音とは違う要素も感じられます。

そう考えると…なるほど、思うことがあり動画にコメントをしたのです。
Esbjörn Svensson Trio(=E.S.T.)の「Tuesday Wonderland」は美しく不思議な響きが感じられ、初期(「Largo」の頃)のブラッド・メルドーに近く感じ長年愛聴していましたが、E.S.T.のWikipediaではバルトークの影響がある書かれているものの全く実感が得られなかったのです。
2022 4/7のラボ配信で現在非公開になっている「Practice Bartok (Test)」では、バルトークの影響があるジャズの例としてティグラン・ハマシアン(「京都音楽博覧会2023」で角野氏と共演予定)を紹介頂き、その際には納得できたのにE.S.T.ではできない。。。
たしかに、マイナー調で民族的雰囲気は共通するとは思うものの、私がE.S.T.で好きだったのは、フレーズの繰り返しやメルドーに通じるような浮遊感のある響きだったからです。
で、ここにきて「分散和音」という概念を改めて考えると、もしかして別物だと思っていた「浮遊感のある響き」と「フレーズの繰り返し」の源泉は同じかもしれない、ということに気づく訳です。
そして、リズムや反復の音楽的効果をあえて無視するように聴くと、ハマシアン的な質感(ラボの時の記憶がないのですが…たぶんペンタトニックという話もしていたような?)、たしかにバルトークに影響を受けたと言われたらそうかも…となった訳です。
しかもドミナント進行のような効果もすごく感じられました。
さらには、「ブラッド・メルドー IN JAPAN〜」のピアノ協奏曲の感想で「違う楽器で行われるユニゾンって、それぞれの楽器の基音が倍音になる為なのか…楽譜に書かれている音だけではない+αの共鳴のような音が感じられて不思議な感覚が得られます。」と書いたような、ウッドベースとピアノのユニゾンが見事なまでに美しく計算されていることに気づけました。
King Gnuのボーカルお二方は地声と裏声のユニゾンに感じる浮遊感みたなものです。
これまでシンセサイザーの音かと思っていたものが、YouTubeで確認するとピアノとウッドベース(弓弾)のユニゾンだったり、もちろん普通にピアノとベースもユニゾンも多用されていますが、そのシンクロ率が物凄い!!!
ここまでシンクロできる音楽パートナーを失うことがどれ程のことだったのか…と、ベーシストの方の後の人生を心配してしまうほどでした。。。

このラボでもう一つ気になる話題だったのは「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番」、その時のことは「「小曽根真ジャズ・ライブ〜」に書いています。

翌日(コンサート前日)、話題に出ていた「プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番」の演奏をSpotifyで試聴したのですが、人気作として上位に表示されるピアニストの演奏をいくら聴いても、どうにも納得しがたいのです(本当に私はピアノのストライクゾーンが狭い)。
第1楽章の中盤少し前にリズムが際立ってくる部分はドライブ感が感じられないと興醒めです。
また、第3楽章の後半の部分はより躍動感のある曲調にも関わらず、それが均一なテンポで演奏をされていると、「曲名思い出せないけどアノ感じのノリじゃない!、アレじゃないと気持ち悪い…」みたいになってしまい、延々とSpotifyを彷徨いました。
そしてようやく気持ちよく聴ける音源に辿り着くと。バーデン=バーデン南西ドイツ放送交響楽団演奏、指揮者ミヒャエル・ギーレン「ミヒャエル・ギーレン/リスト & プロコフィエフ名演集」(Spotifyでリンク 2〜5曲目が該当)というコンピレーションでした。残念ながら初出は不明。
ピアニストはなんと1900年生まれのFriedrich Wührerという方で、戦後は演奏より教育に携わられた方とのことなので、たぶんモノラル録音をステレオ化した音源かと思われます。
ちなみに、気にしていた比較部分をこの音源で指定すると第1楽章は4分過ぎ、第3楽章は5分位から。
とにかくSpotify上位に表示される現在のピアニストとは全く違う印象です。

「小曽根真ジャズ・ライブfeaturing 松井秀太郎」〜直前の雑感とともに〜

実はこの後さらに検索をすると、最古まで遡れるのは(この音源の元と思われるものは)1967年のモノラル版でした。
この指揮者ギーレンとピアニストのヴューラーの組み合わせでは、プロコフィエフのコンチェルトとして1,2,3,5番でもリリースされており、4番も他の指揮者ですがヴューラーの演奏を聴くことができます。
さらにFriedrich WührerをSpotifyで検索すると、2020年頃から多くのアルバムがリースされていていました。
モノラルをステレオ化する技術の向上だけでなく、著作隣接権が切れて自由に安く制作できるから(初販から70年で切れる)?という穿った見方もできますが…Wikipediaでも戦後の演奏活動はほとんど無いと書かれている余り知られていなピアニストとなのにリリースが続くのがちょっと不思議。
その一方で、クラシックに疎い私にのような者でもサプスクで流れてきたら楽しく聴けてしまうことだけは感じるのです。
その魅力はやはリズム的な部分にあり、ドライブ感やテンポの揺らぎが生理的に気持ち良く、とてもナチュラルです。
以前、ショスタコーヴィチ自身の「ピアノ協奏曲第2番 第3楽章」の本人演奏音源とは知らずに聴いた驚きを書いているのですが、ロシアのピアニストとしても活躍した作曲家は、リズムやグルーヴが生きた曲をつくるのが得意だったのかも……。

角野氏が演奏されるとなると事前予習にも力が入り(笑)、Spotifyにある全ての同曲の演奏を聴いてみました。
すると、演奏はあまり上手くないけど(笑)グルーヴがヤバイ!!!!!!という音源を発見しました。
音は悪いのですが、発売は2021年。
PCの画面リストで見えるアーティスト欄にはAleksandr Gaukとあったので、wikiで調べてみるとショスタコーヴィチの指揮では定評がある方の様。
(中略)
PC左下にある「現在演奏中」のダイアログにカーソルを乗せると見えていなかったクレジットが流れてくることを発見し、Spotifyの使い方を検索してクレジット表記してみたら、、、なんとなんと、ショスタコーヴィチ本人の演奏らしい?!
(アーティストとソングライターの表記がわかれている)
うわ〜〜〜〜〜〜〜!!!と、夜中に一人で大興奮。
ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番単独のwikipediaをみると、「作曲者自身もしばしば演奏した。」と書いてあります!
収録から約60年を経て(1957年に作曲され指揮のガウクが1963年に死去するまでの間の収録)音源化された理由にも納得です。
最新の技術を使ってここまで綺麗な音にしたのでしょう。

第83回 東京交響楽団&サントリーホール こども定期演奏会 〜秋の風景〜

もしかしてもしかすると…
私が苦手なベタベタノッペリした演奏、もしくは不自然にテンポを揺らしすぎる演奏って、戦後の流行のでしかなかったのかも?…とか。
まあ、自分が好きではないものに対する勝手な解釈なのですけど。苦笑

そしてプロコフィエフを聴いた翌日(=小曽根氏のコンサート当日)のことも、すでに書いてあります。

クラシック音楽の中で、浮遊感を感じる不思議な響きで印象強いのが「ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 第1楽章」の冒頭の鐘の音を模したというあの響き!
Spotifyで試聴してみると、またもや「えええ??? イメージと違う!!!浮遊感や不思議な感覚がない!!!」と。。。
私の中では、角野氏が年末年始に「ジルベスターコンサート」で演奏された響きが基準です。
改めてその時の録画と色々な方の音源を聴き比べました。
何度もと聴き比べてみると‥どうも下記のような違いがありました。
「1オクターブの同じ音の内、多くのは高い音が強いのに対して角野氏は低い音の方が強い。」
「右手、左手、右手、、、と交互に演奏されていく際の左手の音が長く響いて右手の音の下にまだ聴こえているうえ、その右手の音はアタックが弱めで左手の響きを消さない」…等々。。。
左手の音を長く伸ばされる方がいたとしても右手のアタックが強いと不思議な響きにならないとか、和音のオクターブのちょっとしたバランスでも印象が違うとか…冒頭の部分だけを色々な方で1時間位確認していたのです。

「小曽根真ジャズ・ライブfeaturing 松井秀太郎」〜直前の雑感とともに〜

それぞれの指で鳴らす音の強さで和音の印象が違ってくること、右手と左手で交互に慣らされるその音の残響によっても印象が変化することは、分散和音という概念を知ったことでより意識できる様になりましたす。
和音の中にはそれぞれ個別の音要素があること、それらの重なり方は必ずしも和音の中だけではないと、ということなるのですから。
結論を先に書くと、この意識は前回のnoteに書いた「アダムズ:悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?」の第1楽章冒頭の変化を捉える感覚もつながっています。

そして小曽根真氏fet.松井秀太郎氏のコンサートを経て、6/5の事。
6/4に放送された「狭間美帆のジャズ・ヴォヤージュ ピアノを聴きたいJAZZ」の聴き逃し配信を聴いたのですが、正直さっぱりわからない。。。苦笑
最後の方に最近のピアニストとご紹介下さった方だけ…唯一ちょっとわかるかな…という程度。
以前から王道ジャズはダメという事は書いていたものの、ここまでわからないとは…自分でも軽くショックを覚えました。
そんな中で、自分の音楽史上もっとも王道に近いジャズピアニストの曲を改めて聴いてみると、、、
おおおお、、、「ドミナント進行」みたいな効果がめっちゃかっこいい!!!と。。。

しかも、翌6/8に見逃し配信で/4放送の日本テレビ「世界一受けたい授業(なぜか公式サイトでは1位の話題が記載されていない)」の亀井聖也氏がご出演シーンでは、ピアノの音が腕と手首の使い方によって違ってくることを説明されていたのです。
うあ〜〜!!これもすごいタイミング!
実はその方、「手首から先しか使わない特別な演奏」をされるのです。
ピアノの音のストライクゾーンが狭いことは何度も書いていますし、ジャズにありがちな強く押し付けるような(ピアノの響きを抑えつけるような)、弾き方は好きではないのですが、唯一この方の演奏だけは大丈夫なのがかねてから不思議だったので、亀井氏の説明を参考に演奏動画をチェックしてみました。
そのチェック中、偶然にも未発表音源が4月末にリリースされたことを知り、それが「悪魔は〜」第1楽章の「機関車」にたどり着いた原因です。
が、その経緯を詳しく書く前に、タイトルの「ミニマルミュージック→ジャズ→クラシック」に関して私自身の変遷を書いていきます。

6/7には、かてぃんラボ「John Adamsの音楽に感じるジャズとの関連性」が配信されました。
「Practice Bartok (Test)」時には、グルーヴを感じるジャズ等はお好きなのにミニマルミュージックはわからないとを話されていたことを思い返すと、私の変遷とは全く逆だった訳です。
ただ、このラボで解説されたジャズとミニマルの関連性は素人にとっては飛躍が大き過ぎる様に感じます。
直後にNHKでライヒの「18人の音楽家〜」が放送された事もあり(※フルバージョンは9月以降に放映)、アンコールの「フリードリヒ・グルダ:プレリュードとフーガ 変ホ短調」がミニマルの趣向だと感じる方が多かったのは、音楽として影響を感じたというよりトピックスとしてミニマルにフォーカスが合ってしまったように思われるのです。
この解説ではジャズとミニマルの間の飛躍が埋められていないというか。。。
昔の音楽シーンには素人でもわかりやすい類似性が沢山あったので、それを少しご紹介します。

話はこのnoteを書き始めた初期にまで飛びます。
高木正勝氏がメゾン・ド・ミュージック「はやとちりラジオ」にご出演の際、ご自身の音楽のルーツを映画「ピアノ・レッスン」のワールドミュージックとは違う民族的な音楽との出会いだと語られていました。
この映画の全体の音楽はミニマルミュージックの作曲家としても知られているマイケル・ナイマンです。
2008年当時高木氏の「Tai Rei Tei Rio」のコンサートまでを追ったドキュメンタリー映画「或る音楽」を観に行った理由はビートや音が細かい単位で繰り返される「18人の音楽家のための音楽」同様の音楽が好きだたからで、声も含めてアナログ表現にこだわる演奏の様子を観たかった為です。(今のようにYouTubeはありませんから)
高木氏は今でも少ない音数でスケッチするように音楽を作られるそうですが、ミニマルミュージックの系譜にあるとは思っていません。
「解釈とイノセント〜」では、Practice Bartok (Test)」へのコメントとして「ミニマルとテクノの共通性をトランス状態に入りやすい単調で起伏の無いリズムや音階」と書いたことを紹介していますが、テクノやハウスなどのエレクトロニカの分野でも電子音による反復性との関わりは切り離せません。
高木氏の場合は、どちらかというとテクノ的なものからの流れと、民族的な音楽の反復のグルーヴが混在となったような作品性を感じています。
ラジオで語られた「Girls」の創作経緯から考えても、テクノやハウスなど電子音で繰り返すビート(今だったらトラックメーカーが作るバッキングトラックのようなもの)からの展開が強く感じられるので。
また、ハニャ・ラニ氏もこの潮流にある様に感じられ、もう少しクラシックからの影響も入っているのでしょうが、テクノとの関わりは切り離せないでしょう。
つまり、音楽様式の何のどこから影響をうけたのかは違ったとしても、「起伏の少ない音やリズムや反復はトランス状態に入りやすい」という効果・特徴があり、さまざまな音楽で用いられていた訳です。

これらの特徴は、1990年末〜2010年代の日本のクラブカルチャーにあった広義のElectronic Dance Musicにとても良く合ったので、ミニマルの影響とかテクノの影響なのかもわからない数多くの近しい質感の音楽が溢れていました。
私が知っている15年前ほどに流行っていた「日本のClub Jazz」はまさにそのなかにあり、それまで(学生時代も含めて)音楽を聴く趣味がなかった私が音楽を聴くきっかけになったのです。

冒頭に書いたNu Jazzは、E.S.T.やメルドーも含めたもう少し広い範囲ですが、日本独自に展開されていたジャンルとしてClub Jazzがある感じです。
今ではこれらのジャンル・名称はほとんど使われませんし、音楽に対する分類がサブスクのプレイリストの登場で確実に変わったと言えるでしょう。
音楽はジャンルではなく聴くシーンによって分けられるようになった気がします。
また、アメリカの音楽シーンにおけるクラブカルチャーとの関連を考えると、ラボで語られていたヒップホップとの影響として、トラックメイカーのつくるバックトラックにアシッドジャズ系のテイストが見出される様です。

話がまた昔にもどりますが、このClub Jazzは日本独自のクラブカルチャーとして展開したので、SpotifyでもClubJazz Japanと別扱いになっています。
Penthouseがフェスで共演したSOIL & "PIMP" SESSIONS(ピアノトリオはJ.A.M)はモロですし、「クロステイル」劇版のPOLYPLUSJABBERLOOPfox capture planのメンバーが含まれるなど、その流れにあります。
Spotifyのプレイリストの中で当時聴いていたのは上記以外に quasimode PE'Z TRI4TH 中塚武氏 上原ひろみ氏 猪野秀史氏等で、リスト外だとJizueにindigo jam unit等。
Club Jazz周辺の音楽がお好きな方の中にはジャンルを超えて多くの音楽を聴かれている方もいらっしゃり、ガンガンのプログレロック系なのに反復と変拍子が多いmudy on the 昨晩やRegaなども教えて頂きました。
これが「悪魔は〜」の冒頭、変拍子なのに四つ打ちに聴こえていた要因なのかも…と思えて自分でも笑ってしまう。。。
今の日本ではクラブカルチャーは衰退してしまいましたが、動画やサブスクではリアルタイムで海外の音楽を聴けますし、それはそれで別の展開が望めるという事だと思います。

ということで、ミニマルっぽく感じられる曲の多くは実は分散コードの繰り返し(=バッキングから来ている)と思われる訳です。
そこを厳密に区別する必要があるとは思わないものの、違いがわかりやすい例があったので参考までに。
すでに解散してしまったindigo jam unitですが、今でも好きで良く聴いています。
●全体が分散コード的繰り返し「AdrenaLin」
●冒頭がミニマル的展開「ROOTS」
プロとしてはこの2種類を分けて用法を引用・展開していると思われるのですが、素人には関係もないでしょうし私も長年聴いていたものの違いを認識できていませんでした。
いずれにしても、この当時のClub Jazz周辺の音楽をミニマルミュージックとジャズの間に挟むとその関連性が実感して頂けると思うのです。
前回のnoteには「関係性が感じられれば(構造的に認識できれば)正しいか正しく無いかはどちらもで良い」という事を書いているのですが、この場合は構造性に気づく必要すら無いと思っています。
その理由は、音楽で手法が引用される場合、その理論を引用することが目的ではなく、得られる質感や印象を近つけたいが為の行為だからです。
理論や用法が違っていても、与える質感や印象が近かったら…それでOK!ってことではないでしょうか。

ラボ内でミニマルとジャズとを結びつける事例としてライヒの「Electric Counterpoint」が紹介されていましたが、ジャズギタリストのパット・メセニーの演奏として文脈からは読み取れるものの、素人がこの曲を聴いてジャズとミニマルがつながっていると感じるのは少々ハードルが高い。
同じくライヒ作曲の「New York Counterpoint 第3楽章」では、ジャズの要素・スウィング感(ノリとして)がミニマルのモチーフになっていることがよくわかります。(4月に角野氏がNYに行かれた際に相互フォロワーさんのTweetのがあり、OTTAVAで「ニューヨークに引っ越した角野さんに似合いそうな曲」として流して下さった曲なのだとか。流れたのは第1楽章でしたが、よりジャズ味のある第3楽章)
ただし、これは単独事例でしかありません。
「悪魔は〜」のようなミニマルの系譜にジャズが音楽的背景として感じられるのものとは意味が違うので、そのことについては後でまとめて後述します。

ここまでミニマルとジャズの関連性について書いてきましたが、タイトルの最後にあるクラシックへの変遷が難しい。。
2020年、コロナ禍で小曽根氏の演奏を聴くまでは、その間として認識できていたのはカプースチンとガーシュウィンのみでした。
ただ、別の機会に書いているように小曽根氏の音楽に惹かれた理由も当時はわかっていませんでした。
一方で、角野氏のことは知ってはいましたが小曽根氏とお知り合いとは思っていませんでしたし、2021年まではクラシックもジャズもそれぞれの様式あわせた演奏が可能なピアニストという認識で、クラシックの演奏の中にもジャズ的な質感をシームレスに感じるようになったのは、やはり昨年からです。
そして最近の驚きといえば、小曽根氏がクラシック的な技法を用いつつも「ジャズ魂」とおっしゃって即興演奏をされたことですね。
これは音楽理論の問題ではなく二間をつなぐ構造的なアプローチになる訳ですから。
そしてもう一つの驚きは、50年以上前に演奏されたヴューラーとショスタコーヴィチの演奏からは、純粋なクラシック曲でもジャズに近しい心地よいリズム・ビート・グルーヴが感じられたことです。
これがタイトルに書いたミニマルミュージック→ジャズ→クラシックという影響として私の中で繋がっている訳です。

そしていよいよ、Club Jazzにも王道ジャズにも関連性があり、「悪魔は〜」の第1楽章を機関車のモチーフだと認識したレジェンドジャズピアニストについて書いて行きたいと思います。
このピアニストのことを教えて頂いたのもClub Jazz周辺の音楽好きの方からで、音楽のジャンルは多少違ってはいても、共通に「好き」と思える感覚が確実に存在するのです。

<Hubとしてのペトルチアーニ>

このnoteでは通常、人物名の初出時にWikipedia等をリンクするのですが、今回は行いません。
人となりよりも先にその音楽を聴いて頂きたいからです。
ミッシェル・ペトルチアーニはブルーノートレーベルからリリースしているジャズピアニストですが、そういう王道系のピアニストの中で私が唯一好きなピアニストです。
素人にも分かりやすいと言われるレッド・ガーランド、ビル・エヴァンスにチック・コリア等を聴くことはありますが、良い演奏・良い曲という感覚はあっても、ペトルチアーニのようにピアニストとして好きというのとは少し違うのです。

クラシックTVを拝見後、狭間氏のラジオで聴いたジャズピアノが全然わからなかった直後に意識的に聴き直してみると、ドミナント進行のような「緊張と解放」が洒落ていて本当に絶妙〜〜!!!!
しかも、分散コードの使い方もClub Jazzっぽくて、長々と反復が続きコードに対しメロディを不協和音的にぶつけたりもしますが、王道ジャズみたいなしつこさも無くスッキりと気持ち良さが勝るのです。
主題の入りも直前の不協和音部分から転調したかのようですごーくカッコいい!
そう、「悪魔は〜」の冒頭が機関車モチーフだと思った超有名な曲とは、ペトルチアーニが演奏した「Take the 'A' Train」の事です。
まあ、書かなくて曲名については想像がついただろうと思われますが…笑

当初(PPTコンサートの前に聴いた時)、分散コードやドミナント進行的なメロディの効果に意識で集中していたののですが、コンサート後しばらく経ってみると、この前奏が機関車や汽笛を写実的に模した表現であることが感じられとても驚きました(っていうか、普通はそっちを先に気づくはず 笑)。
印象派がさらに突き進んだ先にあるようなものかもしれませんし、質感が写実すぎて抽象化されてしまうジャコメッティのようなものかもしれませんが、ゲシュタルト崩壊と呼ばれる現象のように、細部を意識することで全体像が認識できず表象的な抽象表現として感じていたのです。
ペトルチアーニの「Take the 'A' Train」冒頭のアレンジは超有名なのでYouTubeでも他のリリース音源でも残っていますが(それらは聴いていたのですが)、この演奏で改めて発見があったのはピアノソロとしてスッキリ細部が感じやすいことと、他の演奏に比べて延々と左の分散コードが続いていることなど、改めてClub Jazz的な質感として感じられたからです。
そして別タイプのアレンジと聴き比べた所、和音(一つの音の響き・塊)で進行するにも関わらずやはり機関車に聴こえてきます。

すると23秒過ぎのバッキングの平行移動が、あれ?「悪魔は〜」に近いかも…と。。。
それを一度認識してしまうと、もう「悪魔は〜」第1楽章冒頭は機関車としてしか聴けなくれなってしまった訳です。
こんどはゲシュタルト崩壊の逆、記号の表象上の類似点を意識してしまうことで文脈は無関係でも関係性を感じてしまったのです。
例えは悪いですが、お寺のマークとナチスのマークみたいな。。。
ですから、第2楽章や第3楽章のようにアダムズ氏がモチーフに対して引用した可能性になるようなものは何一つありません。
ただ、音楽はそもそもが抽象表現である以上、文脈や背景を排した結びつき(誤解も含む)が実際の影響関係として働いている可能性は他の芸術よりも可能性が高いといえます。
さらに、この演奏から「悪魔は〜」に近い質感が得られる事は「悪魔は〜」の第1楽章にジャズの影響が読み取れる理由の一つにもなるのです(論理ではなくて感覚として)。
ちなみに、最初に紹介した前奏アレンジとほぼ同じでありながらグルーヴやノリがもっとジャズ!という音源があるのですが、こちらを例にしなかったのはYouTubeには無いことと、トリオとしてのグルーヴがマジでヤバい!!
メッチャメッチャカッコよくて気持ちがそっちに持っていかれるからです。笑(私がペトルチアーニで一番好きなのは、この路線)
ブルーノート東京でのライブアルバムのリマスター版「Trio in Tokyo」のボーナストラックで約9分、日本人客でも大騒ぎしている様子が録音されていますが、この演奏だと誰でも熱狂しちゃいますよ、ほんと。笑
まあ、日本人の感性としてペトルチアーニが大好きになってしまう理由もすごく分かるのですが(後述)。

ということで、亀井氏の説明で気づきを得た手首問題。
ミッシェル・ペトルチアーニがどうして「手首から先しか使わない特別な演奏」なのか、という部分の説明を。
11年前、ペトルチアーニのドキュメント映画が公開されました。
もちろん観に行って大感動!!!!
その予告版をご覧いただくと音の特徴とその意味がお分かりいただけると思います。
たぶん…ピアノと同じの鍵盤楽器が演奏される続ける将来にわたっても、ペトルチアーニのようなピアニストは二度と現れないでしょう。。。

語ると長くなるので、小文字にします。
私はピアノの音のストライクゾーンが狭いので、当然この「手首しか使わない硬い音」には多少の違和感はあります。
タッチが極端にシャープになる上、打鍵までの運動距離が短かい以上、強く弾くには重さが必要になるからです。
好み自体が偏っているので本来の趣味からすると好きにならない音のはずなのに…なぜか許せてしまう。その理由は自分でもわからなかったのです。
角野氏が以前おっしゃっていたことを参考に、今回聴き比べてみてわかったことがありました。
大きな音を出すには打鍵時のスピードと重さの関係にあるということです。
それで言うと「打鍵のスピードは強い方が好き」で「重さは軽い方が好き」になります。
動かす支点の違いで速さに影響を受ける(肩から動かす方が手首から動かすよりも早くなる)訳ですから、ペトルチアーニは重さで速さの不足分を補わないとならないのに……上記の予告編にあるように恐るべき速さで不足分を補っていて、距離が短い分とてもシャープなのです。
重さが必要な時は腕ではなく体全体をかけため指のフォルムも潰れるくらいですが、それすらも音を抑えつけるような重さにはなっていない。それが不思議で不思議で。。。
で、動画をみたらすごい事に気づいてしまった!!!
足が短いのでペダルが踏めないのです。(今更!!!!!)
Wikipediaには子供用のペダルを使っていると書かれていますが、YouTubeを見ると使っている形跡がありません。
つまり、鍵盤をずっと押し続ける行為は直接弦を触る視覚イメージにつながり「音を抑えつける」という感覚にながっていたのですが、実際は音を開放するための行為です。
それは誰でも共通なのですが、想像するにペダルを使う場合は鍵盤に指を長く留める事と音の響き(長さではない)とを意図する事は少ないのでは?
ペトルチアーニの演奏は、たぶん音の長さと響きを鍵盤だけでコントロースする意識が常にあるのではないか…と。
ペダルだったら全体が響いてしまうような場合でも鍵盤によって個別に響きをコントロールする表現性が生まれているのかもしれません。
シャープでアタックが強い音ですが、単にそれだけにとどまらない独特の響きが美しい曲もたくさんあります。
特に好きなのは代表曲ともいえる「September Second」
ラボ内でジャズとラテンの関係について疑問を持たれていましたが、私的にはちょっとラテン系にも感じられます。
また、ペトルチアーニの演奏からは難解さは全く感じられず、メロディーも美しく不協和音的にぶつかる所でも嫌味がありません。
一番の魅力は「緊張→解放」ですが、メロディとしてドミナント進行的な意味も含まれますし、リズムとしての音の反復も含まれます。
ペトルチアーニの身体的問題(次の瞬間には骨折するリスクを背負いながらの演奏=実際に演奏中何度も骨折)や常に死の不安(肺が弱く死因も急性肺炎)と隣り合わせにある精神面の影響は芸術家の背景としてあったとしても、あえてここではスルーします。そういうことを知らなくても本当に素晴らしいからです。(私は音楽を長年聴いた後に知ったので)

7/9 追記 スタウィンウェイアーティストでした。

簡単にNYのジャズ史のようなものも見てみたのですが、1970年代にハービー・ハンコック、チック・コリア等の出現でジャズ全体がフュージョン化し、伝統的なジャズの衰退に至りました。
そこで1980年代に「純ジャズ復古」としたblue noteのレーベルシリーズが出たのですが、チャールス・ロイド・カルテットのメンバーとして30歳近く歳が違うペトルチアーニが参加しています(前任にキース・ジャレット)。
ペトルチアーニのピアノはフュージョンを経たうえで再び王道ジャズ路線に立ち返る方向性にも若い世代でありながら(だからこそ?)馴染んでいたのです。
とはいえ、洗練されたヨーロピアンジャズとして分類されていたり、私のように本場ジャズは無理という者でもClub Jazz的なノリで楽しめてしまう大衆性があります。
とにかく一言では言い尽くせないさまざまな魅力が散りばめられていて、本来だったら理解できなかったかもしれない王道ジャズとを結び付けるHabのように溝を埋めてくれるのです。

実は前回のnoteを書いている時(この内容も一緒に書くつもりだった為)、相互フォロワーさんが面白い動画を紹介して下さり、またまたシンクロニシティ!!
また、別の相互フォロワーさんが「YouTube & Article Summary powered by ChatGPT」というChromeの機能拡張を紹介されていてたので、これを利用して翻訳・要約されたテキストを拝見しました。

J-POPがタイトルになっているのですが、冒頭と最後に象徴的に流されているのは菅野よう子氏作曲SEATBELETSの「TANK!」でした。
当時はサブスクのプレイリストも当然なく、著名なDJが選曲したClub Jazz系のコンピアルバムが沢山リリースされていて、その中にSEATBELETSが入っていたいたのです。
反復が少なかったので(笑)SEATBELETSのアルバムを改めて購入するほとではなかったのですが「TANK!」は今でも割と聴いています

この動画の中ではジャズアレンジされた日本の音楽を「違和感と馴染み深さが同居」と語っていました。
日本のJ-POP(タナカヤスヒロ氏/宇多田ヒカル氏/椎名林檎氏等)はジャズファンク R&Bの影響を強く受けている」そして違和感が大きいのは「リズム」であると。
言語が その文化の音楽に与える影響については、角野氏も以前おっしゃっていましたが、そのせいでスイングが日本では無いことにも言及。
そう、以前も書いた様にグルーヴやノリは日本の能にも感じられるのですが、唯一感じられないのがスウィングなのです!それは言語から来ていたのですね。
そして、Club Jazzもスウィング的なリズムはあまり感じられず、それがミニマルミュージックのクラシック的な音楽性と近く感じられるのです。
テンポが一定のミニマルからテンポが揺らぐジャズに直接つなげようとすると溝が大きいのですが、Club Jazzを間に挟むととてもわかりやすくなるのはその為です。
「Take the 'A' Train」の例にモントルーライブを用いたのも、Trio in TOkyoに比べて揺らぎが少なくスッキリしたリズムだったからです。

さらに「日本人のブルースの 解釈の仕方が興味深い」
「型通りのペンタトニック スケールの話でもない メロディ上のテンションの緊張と緩和の話だ」とも語られています。
この部分が度々書いている、私が(たぶん多くの日本人が)ペトルチアーニを大好きだと思う理由に通じていますし、Club Jazzに感じられる大衆生に重なるのです。
「明るいマイナー・キー」「メジャー・キーの曲が悲しく聞こえる」というキーワードも出て来ますが、前者はPenthouseの「蜘蛛ノ糸」の冒頭ですし、後者は「恋標」にも通じますね。
ちなみに、この方が演奏された「TANK!」を聴くとなんだかモッサリ…苦笑リズム感が明らかに違います。
ペトルチアーニには本場のJazz的スウィング感もありつつ、日本人が好きなシャープなドライブ感もありつつ、メロディ上の緊張と緩和が絶妙なバランスで、ジャズを知らない人をも惹きつける大衆性を持っています。
それが可能だった理由は、単に天才だったのか、身体的問題が要因なのか、イタリア系フランス人によるアメリカの音楽だからなのか、旧世代ミュージシャンとのインタラクションの結果なのかはわかりませんが‥とにかく私の中では広いジャズ周辺の色々な要素のHabとして存在しているということです。

これで終わりになってしまうとペトルチアーニ推しというだけになってしまうのですが、この動画では前回のnoteにつながる面白いことも語られていました。
「アメリカから影響を受けた音楽が アメリカに逆輸入されることで 新しくて刺激的なものが作られている」と。
これは受容者として他文化の多様な影響を違和感も含めて興味深く受け取れる視点が獲得できているという事で、「唯一無二の創造」を尊ぶ文化から明らかに違う感性として「時代が変わった!」と感じられたのです。
この方がジャマイカをルーツに持つということとも関係しているとは思いますが、両儀を含む混沌にこそ面白さがあるという感覚は、前回書いた「悪魔を〜」や「アルプス交響曲の解釈」とも共通ですから。

アカデミックな領域においてその価値観を崩すのは至難の業ですが、今だったら時代的にその可能性も感じられます。
しかも、昔のクラシック演奏が結構リズミカルだったことが古い音源リリースで感じられるのですから…個人的にはものすごく期待大。
なにより、私が好きではなかったクラシックから、私が好きなクラシックに変化していく可能性が大いに考えられる〜〜!!!笑

これはただの贔屓目な解釈でしかありませんが、ジャズから一気にフュージョンに流れてしまいそうな時に若いペトルチアーニという外国人ジャズピアニストの出現によって王道ジャズ路線に新たな息吹が吹き込まれ、それがまた新たな展開に広がっていたとも考えられます。
自国のものが他国で変化したものを取り入れる様に、時代で受け止め方が変わる度に新たな発見があるように、影響が新たな影響を生み(論理を超えた結び付きも含む)互いのフィールドで発展していく可能性は、その影響をプラスとして受容できる限り「黒やぎさんと白やぎさん」の様に永遠に続きます。

いずれにしても、表現者だけの問題ではなく受容者側の感性までも含めた問題であり、それこそが時代性と言われるものです。
再構築なのか再発見なのかはわかりませんけど、今まさに変化のタイミングが来ている、と思ってしまうのでした。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略