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【RP】表現の発生プロセスとメタ的な表現アプローチへの私観 〜ポーランド国立放送交響楽団日本公演ツアー神奈川公演より 〜

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)


本編

冒頭に「私は角野隼斗氏がショパンコンクールのファイナリストになれなくて良かったと思っている」という事を書かせていただきます。
角野氏ファンの皆様にはご不快に感じられるかもしれませんので、その場合は冒頭の項目を飛ばしてお読みください(とはいえ、後の項目でも多少言及しています)。申し訳ありません。

<表現の発生プロセスへの私観>

私はブルーノート東京で行われた様な角野氏の演奏が一番好きなので、ファイナリストになったらクラシックの演奏機会ばかりが増えてしまうかも…と勝手に心配していました(すでにその傾向が感じられていたので尚更…)。スミマセン。
ご本人のコメントでは「きっとお前は自分の道を行けということなんだと思うことにします。この経験を糧に、僕はこれからも自分の信じる音楽を貫いていきます。」とありましたが、本当にその通りだと思います。(単なるポジティブ思考とは違う、ある種「偶然性を今後に生かす様な他力」的な考えかたも、妙に日本っぽい…笑)

ヤミジリさんが書かれたショパンコンクール角野隼斗氏の考察について。 (追記有)

当時はまだ角野氏のファンとは言い難いものでしたが、コンクール直後から角野氏がショパンコンクール本選に進まれなかった事を割と歓迎しています。
現在は、改めて本選に進まれずに本当によかったと思っていますし、神様からのプレゼントではないか、とすら思っています。
それは「障害は人を成長させる」とか「苦労の先に成長がある」というありふれた意味ではありません。

芸術は表現として表出された時点で本人とは分離されます。されるべきものとして存在しています。
表現(作品)本意の評価しかなく、本人の死後も常にそれぞれの時代において評価され続けるシビアなものです。
そういう歴史的評価を得た芸術家のバイオグラフィーと同等に捉えた場合、ショパンコンクールのファイナリストになられていては、現在の「ピアニスト 角野隼斗」というアーティストの存在はなかったと思えるからです。

もしファイナリストになられていれば、学歴や容姿を含めた話題性だけを追いかけるマスコミから「クラシック界のプリンス(苦笑)」などと持て囃され、今以上にクラシックに特化したアイドル的扱いになったと思われます。
ショパンと比較された安易なオファーが殺到していたと思われ、ご本人がさまざまな音楽への好奇心をお持ちだったとしても、職業音楽家としての活動にその好奇心を落とし込むことは今ほど容易ではなかったでしょう。
活動範囲は今より狭くTHE FIRST TAKEやフジロックのような幅広い活動は望めなかったのではないでしょうか。
というよりも、「幅広い活動」は現在の活動が成立しているから具体性を持っているのであり、クラシック中心の活動に「狭い」と認識する事もなかったはずです。それが普通なのですから。
当時は誰もが想像できなかった未来が現在です。
これらは演奏表現とは別次元の問題ですが、この環境がなければ今の表現性も成立しないという関係性にあると考えられます。

私には、ショパンコンクールのファイナリストになられていたらここまで自由な活動ができていない、3次予選で落選したからこそ表現性を広げる機会が得られた、という理解にしか至りません。
入賞されていれば、今とは違うクラシックピアニストとしては不足のない未来が訪れていたでしょう。
角野氏であればクラシック音楽という枠組みの中であっても新たな展開をみせてくれていたことは想像に難くはありません。
ジャズの演奏もPenthouseの活動もされていたとは思いますが、すでに多様なアプローチで活動される方も多く、昨年までの「スタイルを混在・往来させる(だけの)表現」では、「時代を変えるかもしれない」という期待を多くの人々に抱かせる表現には達していないと思われるのです。
もちろん、今回のコンサートで感じた「革新的表現」にも至らなかったでしょう。
現在の音楽性と昨年までのものとの違いを具体的に説明することはできませんが、ショパンコンクール以降の変化こそが、現在の角野氏を他者と分けている大きな部分だと感じています。
もちろんポテンシャルは最初からお持ちなのですが、それらが顕在化するには様々な条件が必要で、しかも条件によっては顕在化しないで終わる可能性もあったのです。
「神様からのプレゼント」と書いたのは、角野氏に対して以上に素晴らしい音楽を享受できている受容者側へのことです。前述のとおり、ご本人にとっては別の未来でも不足はなかったはずなのですから。

また、当時の私はファンではなかったこともあり、熱心に応援されている皆様とは別の側面から傷心を引きずられているかも?と感じる事はあったかもしれませんが、本当にそうなのか自分の思い過ごしなのかを現時点で問う事はナンセンスだと思っています。
芸術家の傷心と表現は無関係ではありませんが、一致するものではないからです。
さらに言えば、表現者個人の感情はプライベートな領域として土足で踏み込むこと自体が憚られますし、芸術の発生過程に受容者側の個人的感情を重ねることは芸術そものに対して失礼だからです。
芸術が生まれ出るプロセスは神のみぞ知るブラックボックで、表現者本人にも「わからない」という飛躍にこそ本質があり、受容者側の個人的な感傷を重ねることにはおこがましさしか感じません。
芸術そのものと芸術の発生プロセスは全く別物で、混同されるべきものではないのです。
前者は受容者の個人的感情を自由に投影して鑑賞するものですが(だからこそ芸術の受容となるのですが)、後者は違います。

SPICE「角野隼斗×マリン・オルソップ指揮 ポーランド響が届けたショパンピアノ協奏曲第1番!」で引用されていた角野氏の言葉「“refined beauty(洗練された美)”はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」は、「芸術が生まれ出るプロセスは神のみぞ知る」「芸術の表出は表現者がコントロールしようとすれば失われる」とほぼ同義です。
そして、この部こそが角野氏の新しい「メタ的な表現アプローチ」の鍵なのですが、まずは「どれ程この聖域が重要なのか」という部分を受容者視点でのみ記載します。
表現者自身がその表現の発生に対し作為の排除を前提としているのですから、どれほどの専門家や批評家であっても表現者の感情とプロセスの間に意味付けを行うのは無益ですし、ファンがその領域に介入することは避ける必要があるのです。
(注:パリ公演やフジロック等の選曲・構成に芸術性を見出した場合、現代アート的表現性として思考過程に表現者の作品性・表現性が拡張されたと捉えられるため、鑑賞者の自由な解釈を投影する場が成立します)

また、表現者の私的感情が芸術表現にダイレクトに繋がっているという結び付けも危険です。
表現として感情を昇華させるには、自己を冷徹なまでに客観視する必要がありますが、それは演奏時に要する客観性だけではなく、甦る感情を表現に転化させる為の他者性を必要としている為です。
例えば、俳優に起きた不幸な出来事を本人が再現ドラマで演じる事はフラッシュバック等の問題を考えれば通常ありません。
「他人だから演じられる」という類の事をその本人が表現することがどういうことなのか。。。
もちろん、自己と表現を分離しないまま傷心を利用した芸術表現を行う作家がいないとは言いませんが(その様にして生み出された芸術が時代を超えて評価され続けていることも事実ですが)、素晴らしい結果を残せたとしても、その人生は破滅するしかなくなるのです。
角野氏は破滅型ではありませんので、高次元の客観化が成立したからこその記者会見のお言葉だったのだと思われます。

ですが、多くのファンの皆様が抱かれた落選による痛みを否定している訳ではありません。
表現や作品に自己の感情を投影することこそが、芸術鑑賞・表現の鑑賞スタイルだからです。
重ねて書きますが、表現された音楽に受容者側の当時の傷心を重ねたとしても本当に自由ですし、それこそが芸術鑑賞です。

ディルタィは「表現の理解」を、実生活においてなされる相互理解のように、表現されたものからその内実を推測するという仕方でなされる理解
(中略)から区別して、「理解の高次形式」と名づける。この理解の高次形式の課題は「〔表現として〕与えられたもののなかに生の連関を見つけ出すこと」と規定されているが、そのための方法として、生の表出として与えられた作品の中への「自己移入」あるいは「転置」といったことが考えられている。すなわち自己を表現のうちへと移し入れるという仕方で、「心的生の総体が理解のなかで有効に作用する最高様態」としての追形成および「追体験」がなされ、表現の理解が成立する。

口静浩「表現と解釈」ディルタィ解釈の一つの試み p63

また、角野氏のお気持ちを大切にされるスタンス、心情に寄り添われる応援がモチベーションにつながっているだろう事、リアルタイムの活動の支えとなっているだろう事も感じられます。
ではなぜ先のようなことを強く書いたのかといえば、一つは表現としての結果とそのプロセスを混同する動向(個々の問題ではなく総体)がこのコンサートをきっかけに広がった事に危うさを覚えたからです。
これは芸術の扱われ方に対する問題です。
私はフラットで自由な音楽世界を希望していますが、その際に表現と発生プロセスとを混同した鑑賞が誤って広がってしまうことが考えられるからです。(注:旧来の価値観では受容者側の個人的感情を投影する自由な鑑賞ではないので、この類の問題は発生しづらい)
さらにはYouTubeのラボのように「演奏の完成度を上げている変化=プロセス」をコンテンツにされる場合もある訳で、受容者側は本当に注意深く角野氏活動を見極める必要に迫られます。
もう一つは、クラシック音楽を取り巻く世界に本当に新しくフラットな価値観が実現した場合、その世界に生きる人々の多くは「角野隼斗はショパンコンクールのファイナリストになれなかったから時代を変える音楽を作れた」という歴史的解釈が行われるだろうと思う為です。
これは、先に書いた理由プラス「旧来の価値観では評価さなかった天才!」という伝説的エピソードになるという意味でもあります。笑
あくまでも私の個人的「推測」ですが、「想像」よりも可能性は高いと思っているので。。。笑

結論として、角野氏ご自身にクラシック音楽界を変えるという特別な意気込がなかったとしても、21世紀におけるクラシック音楽の表現を真摯に追求されることで、必然的に新たな価値観が広がっていき、一方ではクラシックを苦手にしていた方々も楽しめるようになっていくだろうと考えられます。

角野隼斗氏による新たな芸術表現の可能性とは〜FUJI ROCK FESTIVAL '22を中心に〜

以前上記のように書いていますが、新しい価値観の訪れは角野氏お一人が頑張って実現することでも実現できることもでもないと思っています。
ただ、その中心人物となられる方だという漠然とした確信があります。
度々書いている「死の舞踏」や「アンフォルメル」が時代の価値観に大きな影響を与えられた理由は、「○○論」や「○○派」という概念や芸術とは違い、ただの絵画テーマやムーブメント(=動向)だったからなのです。
厳密な定義がなく、一部分の同調や賛同による緩やかな集合として存在できたからこそ輪が広がり、やがて時代を動かす基盤に成り得たのではないかと。
ですから、上記には一人で何かを成そうとすれば逆に成し得ないという含みももたせています。
「それを意識しないところから発するからこそ〜」という角野氏の考え方と同義であり、そのプロセスがブラックボックスであるという意味では同じなのです。
本当に新しい時代が訪れるかどうかなど誰にもわからないのですけれど、角野氏やその周りにいらっしゃるお若い方々の様子を拝見していると、「時代がついて来ている!」というワクワクがとても感じられるのです。
そして…だからこそ前述の危惧。。。

と、ここまで自分の正当性を主張するような書き方をしてきましたが、懺悔(ネタバラシ?)も書き記しておきます。
まるで私が後世の人に通じるような長期的な視野で角野氏の表現を考えている様にみえますが、前提でロジックが破綻しているので。。。苦笑

ショパンコンクールの本選に残って欲しかったという想いを持ち続けていらっしゃった皆様の多くは、クラシック音楽の中で進化される角野氏の表現を希望されていたはずです。
現実はその希望より芸術的広がりを持った表現に至っている為、一部の皆様が望まれた未来・表現ではない可能性もあります。
けれど、私が拝察している限りはそれを拒否されることなく、さらに深く理解される事に努められていらっしゃる方々ばかりです。
一方の私はといえば、音楽を超えた芸術領域に踏み込まれた今年1月時点からのファンでしかなく、昨年の表現性のままであればファンにはなっていないでしょう(演奏自体は一昨年から引き続いて好きなはずですが)。
そう、狭い自分の趣味に拘っているは私の方なのです。笑
ここでは俯瞰的視野から角野氏の多角的・構造的表現性を論じるように心がけてはいますが、その思考自体がわたしの狭い趣味や価値観の範疇です。
どちらの方が懐の広いのか、、、苦笑

ファンが自己のイメージを推しに投影するという意味では、「本人の希望通りにファイナリストになって欲しかった」と「本人の希望と違いファイナリストにならなくて良かった」には違いがありません。起こりえなかった非現実と起きた現実という対象の違いはあったとしても。
私が他の方との認識が違うのは、前述した「芸術※が生まれ出るプロセスは神のみぞ知る」と考えているからで、そこに表現者の想いすら立ち入れない「芸術の聖域」を認識しているからです。
そのため、表現発生のプロセスには角野氏ご自身の感情を問わず、その環境のみを論点にしたのです。
※演奏表現に限定した場合

ところが、実はこの※に書いた演奏表現の限定を解除した場合、角野氏の新たな芸術として「コミュニケーションそのものに意味を持たせるような場」まで広げてみると、SNSへの反応からアンコールの選曲・各会場での感想をめぐるファンの皆様の投稿など全体を、一つのコンテクストとして認識できる様になるのです。
つまり、演奏表現とはまた別次元で芸術に関わりのある文化的な意味を持ち、その中心に角野氏の(人としての)存在や芸術としての表現がある、という考え方です。
だからこそ音楽をとりまく新しい時代が訪れる可能性がある、という推論も成立するのです。

けれど、コミュケーションと音楽表現が一つのコンテクストで括られるということは、「推しの応援」の比重が「鑑賞」より高くなってしまわれる方を生みやすい環境にあります。
神奈川公演のコンチェルトでは、ピアノが終わった後のオーケストラの最後の音がまだ鳴ったか鳴らないかの早い段階で近くの方が猛烈な拍手をされ、私は最後まで音楽を聴くことができませんでした。
更にはオーケストラの音が終わった直後にザザっと立ち上がる一斉の人々。演奏が終わる前にその音楽を聴かずに立ち上がる準備をされていたに他なりません。
熱心なファンの方のご感想には全く記載がありませんが、そうではない方のご感想にはチラホラ記載を見つけることがあり、その人気に驚いたというだけと、残念さを滲ませている方も。。。
さきに「何かを成そうとすれば逆に成し得ない」と書いた通りに、「応援する」という想いが強過ぎると、時に角野氏が望まれる世界からは離れていく可能性もあるということです。
ただただ、「芸術の聖域」だけは保たれて欲しいと願わずにいられません。

SNSがデフォルトの現在、クラシック音楽界でこれほど多様で大勢のファンがいらっしゃった事例は無く、ネットワーク化されたファンの存在や影響力・そして共感が、後年の文化的解釈(芸術も含まれる)の中でどの様に評価されるのか、私はとても楽しみです。
角野氏を中心とした緩やかなつながりを持つサークルが何を成し得るのか、その可能性にも期待して、自分と他のファンの皆様との「重なる部分と重ならない部分」をそのまま正直に書かせて頂きました。
(個人的には部分的同調が「中間領域」にも繋がるので非常に興味深い)

ちなみに私はアンコールの予想やリクエストには参加しませんでしたが、謎解きには参加しました。笑

うわ〜〜〜‼️‼️
さっき仕事中に初めてアデス「ピアノと管弦楽のための協奏曲」を聴いたら、なぜ最終日に再度「I Got Rhythm」が演奏されたかわかった!第一楽章って、どう聴いても「 I Got Rhythm」じゃん。。。😂
(違っていたらすみません)
#仕事中なのに投稿の衝動が抑えられない 
#角野隼斗
      |
※9/30追記(リプライより)
勝手な想像ですが、ご自身のリストにも非掲載ですし、NOSPRツアーのアンコールはキャンディードで終わらせたいお気持ちお有りだったのでは。次演目への繋がりからは、逆にこのツアーへの特別な想いを受け取らせて頂きました🙏✨

(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)



<ポーランド国立放送交響楽団日本公演ツアー神奈川公演 前>
私はこれまでクラシック音楽をほとんど聴いてこなかったので、コンサート前には予習を必要とします。
今回は特別なコンサートツアー(こういう認識自体を否定するつもはありません)という事もあり、クラシックに詳しいファンの皆様が様々な情報をあげて下さっていましたが、本格的な予習を始めたのは「子ども定期演奏会」後の9/5からです。
クラシック音楽にほとんど馴染みのない自分にとってのショパンは、フランスの作曲家という漠然としたイメージしかありませんでした。ショパンコンクールという存在からポーランド人であることを知ったものの、フランスに亡命しそのまま亡くなったことを考えても、祖国の方々のリスペクトが一方的に大きいだけなのでは?という…大変申し訳ない穿った見方をしていたのです。
なぜなら、これまでサラッと聴いた事のある協奏曲1番からは、ポーランドの民族的表現は余り感じられず、ただフランス的な優美なイメージしか受け取れなかったからです。
ところが、ポーランドからのラボ配信やリハーサル動画の投稿ではその印象が覆されたのです。
突如私の前にアルフォンス・ミュシャ「スラブ叙事詩」がブワーーっと広がってきました。フランス的な美しく洗練された表現とスラブの湿った哀愁を感じるイメージが。。。
ミュシャと言えばアールヌーボースタイルのポスターが超有名で、ショパンへのステレオタイプ的イメージと同じく、チェコ人であっても私にはフランス的な印象しかありませんでした。「スラブ叙事詩」が日本で公開された時にようやくその背景を知る事に至るほど。苦笑(当時所有権の裁判中で大金が必要だったからか?日本に貸し出された、裁判後国有となり門外不出)。
とは言え、さきほども書いた様にその後に2つのクラシックのコンサートを観る予定が入っていたので、その後はまた放置。
直前2週間前になりようやく「ショパンピアノ協奏曲第1番」を聴く際には、Spotifyの「ショパンピアノ協奏曲第1番」のみの公開プレイリストを利用しました。

以前「クラシック音楽鑑賞〜」にも書いていますが、知識を頭に入れる前には「慣れ」が必要で、この順番を間違えると実感が伴いません。
ファンの皆様がたくさん公開してくださっていた知識は後回しにし、とにかく1日12時間以上(仕事中もプライベートもながら聴き)、延々とこのプレイリストを聴き続けました。
2日目の夜位、段々と「この演奏が好きかも?!」と自分の好み(「スラブ叙事詩」的質感に共通するイメージ)がわかってきたところ、それがクリスチャン・ツィメルマン氏とポーランド祝祭管弦楽団の演奏だったことを知り、自分で「おお!!ポーランド方の演奏!」と、単純に喜んでしまいました。コンサート直前にはツィメルマン氏が高松宮殿下記念世界文化賞を受賞されるなど、自分の鑑賞予習が良い線いってる?なんて思っていたのです。

すでにコンサートへ行かれた方からの情報等から、バツェヴィチ「オーケストラのための序曲」が第二次世界大戦下に平和を願って作曲されたものだとわかりましたし、アンコール曲の作曲家モニューシュコも「ポーランド歌劇の父」と呼ばれているだけでなく、「ポーランドの分割に関する条約」でフランスに亡命したショパンに対しポーランドに留まったという事が対比として語り継がれているようです。
私は今回、その演奏にポーランドの民族性やスラブ的表現を期待していました。
しかしながら…
角野氏はいつも通り予想を覆してきたのです!笑
一見関係が無い私の空振を延々と書いたのは、この事が「メタ的な表現アプローチ」に気づくきっかけにもなっているためです。

また、先月からPenthouse矢野氏のTweetをきっかけにした「ヴォイニッチ写本の謎」からの「わらしべ長者的縁起」が延々と繋がっていまして、、、今回のコンサートの鑑賞もそこから非常に大きな影響を受けています。
同書には「ア・プリオリ(先天的・生得的)な創造的衝動」の問題がアール・ブリュットともに書かれており、私の昔の鑑賞体験等も「落合陽一×日本フィル〜」に回想しているのですが、偶然にもInstagramの広告でnoteに書いた盲目の作家の方の個展の案内が流れてきました。
ネットで詳細を見ると、なんと同時開催が「アール・ブリュット展」
(お名前を書いていればアルゴリズム等による広告表示だと思われるのですが、お名前は記載していませんし、noteはPC専門でインスタはスマホでブラウザの連携もしていないので…毎度のようにこのnoteで起きるシンクロニシティ?)
このコンサートの前に(大雨でずぶ濡れになりながら)二つの展覧会を鑑賞したのですが、この「アール・ブリュット展」の素晴らしさたるや!!!!
「本当の意味で美しいというのはこういうものか!」と、その美に触れどれ程の幸福感に包まれたか。。。
帰り際に受付の方に「名残惜しくとても離れ難いです…」と話しかけてしまったほどなのです。

と、ここまで読まれた方は再度この事がコンサートのどこに関係があるのか?と疑問に感じられると思いますが、実は角野氏の「洗練された美はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」という言葉の「それを意識しない」という点においては「アール・ブリュット」こそが究極の芸術表現だからなのです。
ただし、この展覧会を観た時点では単にコンサート前に素晴らしい展覧会を観たというだけで、角野氏との結びつきは感じませんでした。
一方で、私が以前観ていた「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」等とは隔世の感がある事に驚き、今の現代アートの作家が名を残せない後年もこれらの作品は残るだろうと感じるほど、作品は完成度を持っていたのです。
昔のアール・ブリュット作品は単体作品の完成度は必ずしも高くないため、芸術表現をその作品の中から取り出すような鑑賞側の作業を時には必要としていたのですが、今回はそれらが一切不要でしたから。
その要因として考えられるのが、会場内でのドキュメント映像とイヤホンガイドの情報にあったような「プロフェッショナルなサポート」「ア・プリオリな創造的衝動をサポートするシステムの成果」です。
創造的衝動による制作と、その作品としての完成度を確保するシステムが分離されている!と気付いたところで、私は会場を後にしました。
(段々「メタ的な表現アプローチ」に近づいてきた気がしませんか? 笑)

当初このnoteも、フジロックの時のようにコンサートの感想も含めて記載するつもりでいたのですが、来年の全国ツアーが発表され、そのタイトルが“Reimagine”と発表されたので取りやめました。
そして、タイトルもツアータイトルの後にサブタイトルとしてつけていたものを前後逆転させました。
なぜなら、今回私が感じた「メタ的な表現アプローチ」が一回性の偶然ではなく、角野氏の展望によるものだったことが読み取れたためです。
ということで、いよいよ本題へ!!!

<メタ的な表現アプローチへの私観>
冒頭の項に「現在の活動が成立しているから具体性を持っている」と書いた様に、ポーランド国立放送交響楽団日本公演ツアー神奈川公演のショパン「ピアノ協奏曲第一番」を聴いて、初めて演奏表現でのメタレベルというものを認知しました。
コロンブスの卵ではなく、人間にこんな事ができるとは誰も思わない、というほどの驚きです。
芸術家は昔から、その表現者すら侵せない聖域にどうアプローチするかを考えてきたのです。自身の傷心を利用した表現、アルコール・非合法の物質の助けを借りた表現が時に行われたのはその為です。
しかし、ついに「演奏におけるメタ的な表現アプローチ」という新時代の解がZ世代の角野氏によって示されたのでは?!と。
この新たな展開が見えてきた衝撃に私は何と言って良いのかわかりません。。。

「洗練された美はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」は「芸術が生まれ出るプロセスは神のみぞ知る」「芸術の表出は表現者がコントロールしようとすれば失われる」とほぼ同義と書きました。
「再現芸術における即興性」というのは「表現性に対して表現者は無作為である」という意味で、それを演奏表現として成立させるためのアプローチだと言えるでしょう。
これまでの角野氏の音楽は、「角野隼斗氏による新たな芸術表現〜」で書いている様な「音楽の持つメロディや質感がこう演奏してほしいと言っている声」をそのまま引き出して演奏すること、表現者の存在が透明性を帯びている、介在者の存在感が極めて低い、と感じられるものでした。
その最たるものが昨年のショパンコンクール「ピアノソナタ第2番」の演奏で、角野隼斗というピアニストの存在が無になる能にも近い抽象的表現だったのです。
しかしながら、それでは再現芸術の「解釈」を放棄しなければなりません。
解釈を放棄した即興的表現を尊ぶということは、その一方では深みのない表現性に陥る可能性もある、表現に限界があるのです。
ファーストインプレッションを重視する芸術鑑賞はそれなりに面白いものがありますが、作家の時代性や画風様式への理解があった方が作品への理解が深まり芳醇な鑑賞となるのと同じです。

能の場合、能面や装束の組み合わせに解釈の場があり、演者の組み合わせ等で一回性を確保する上演システム、さらに想起を前提とした抽象的様式のため、即興性を保ったままで深い解釈から間接的に生成される構造的イメージを舞台上で表現することができます。
「作為的無作為」「離見の見」は、そのシステム上で成立する「無作為的な表現性」を運用するための思考法といえば良いでしょうか。

では、そのシステムが無い再現芸術としてのクラシック音楽だとどうなるのでしょう。
もちろん、解釈の後にそれを手放すことである程度の深みを出す事は可能でしょうが、表現性を引き出すシステムが無いまま無作為だけを尊重すれば、それが芸術の域に達するかどうかはモチベーションやコンセントレーションによる「不確実なコントロール」か「偶然」に頼るしか手段は無くなります。
角野氏の表現性においては、はこれまで「モチベーション・コンセントレーション」に大きな比重を置かれている様に見受けられ、この方向を更に突き詰めて行かれるのかと思っていたのです。このコンサートまでは。。。

結論からいえば、角野氏は本来のクラシック音楽の表現性にもとづく「表現者個人の解釈」を取り戻したのだと感じられます。
しかも、その表現における無作為性を放棄することなく。
つまり、個人の解釈を行いながらも無作為をコントロールする表現性を志向されているのです。
こうやって書いても意味がわかりませんよね。
そう、前述に私が書いた驚きというのはこんなパラドックスだと思われるようなことをやってしまう人がいるのか?!ということなのですけど、、、、
やってしまった人がいるわけです。
思考概念としては、構造的表現・メタ的なアプローチを用いれば可能です。
それは、アール・ブリュットでア・プリオリな衝動と作品の完成度を上げるサポートの様な「一つの事象に対して別のアプローチ」で関わることです。
離見の見も構造性は同じですが、離見の視点は客観性から一人称へのフィードバックとして行われるもので、通常は一人の人間の同じ時間の中ではその主体を外部(離見)から動かすことができないはずなのです。
私には、そのできないことをクラシック音楽という再現芸術で行ったと感じられました。
いやもう、現実に起こっていることを思考が後追いしているのでなんとも言葉がついて行かないのですが、、、どれだけ凄いのか、という部分だけはご理解頂けたのではないでしょうか。

ということで、私が「メタ的な表現アプローチ」だと認識に至った実際の演奏について、ようやく書く段階にきた様です。笑
コンサートの感想を書くことが目的ではないので、コンサート情報アンコール曲目はリンクよりご参照ください。

ショパン「ピアノ協奏曲第一番」のオーケストラの最初の音が鳴った時から…んんん???と。
もっと、ダイナミックで情動的な音が鳴るものだとばかり思っていたのですが、予想していたものとは全く違っていました。
というよりも、そもそもバツェヴィチ「オーケストラのための序曲」からは、皆様のご感想やパンフレットに書かれていたようなファンファーレの響く祝祭性とは異なった質感しか感じられず、曲が違うにも関わらず「ピアノ協奏曲第一番」との統一感や調和がありました。
ただ、これがなんとも表現し難く、今まで聴いてきた質感とは違うのです。
席が前の上手端ということもあり、この場所(コンサートホールではない県民ホールや端の席)による音響的な質感という可能性も考えられるのですが、途中から「もしかして、音楽的にこういう表現として演奏されているものかも?」と思うに至りました。音響的な要因の可能性も十分にあり、新しい音楽表現の可能性は、まだ4割程度でした。

具体的に新しい音楽の可能性は何かというと、第一楽章にも関わらず全体の音楽的質感が第二楽章的表現に感じられた所です。
私は音楽的な作曲構成や技法などは全くわかりませんが、延々と協奏曲を流し聴きしていた時、第一楽章の一部で時々「あれ?これって第二楽章?」と思ってしまう事が何度もありました。
音楽的質感を身体に慣らす為に、曲やメロディーを覚えるということをあえて拒否する様に聴き込むと、第一楽章には第二楽章のような質感(ピアノは特に顕著ですがオーケストラも含めて)がいくつも存在していて、Spotifyの再生表示を確認することが何度あった事か(特にツィンメルマン氏の演奏)。。。
つまり、その第二楽章的な質感だと思っていたものが、オーケストラからもピアノからも最初の一音からずっと感じられたのです。
それは音楽の細部への意識・ミクロへフォーカスする様な感覚で、極まった情動的表現が立ち入ることのない美の世界でした。
弱音から響き渡る音までが全て美しいピアノとオーケストラによって形作られた完結した美です。
この「完結」という所がこれまで感じたことがない質感のもっとも重要な部分なのですが、前項から何度も書いているように誰も直接手が触れられない「芸術の聖域」の中で全てが執り行われている質感なのです。
ツアー後半のご感想に増えて行った「親密度が増した」という言葉を思い出し、なるほど!と。
たぶんフレンドリーという親密さではなく、サンクチュアリやプライベートな閉鎖空間を共有する安心感、大切なものを慈しむ感覚に近いのです。
もっと言うと、スノードームや天動説の宇宙(閉じられた宇宙)の中で響いているような音楽世界なのです。
その内部は「聖域」なので決して直接触れることはできませんが、角野氏は超能力か何かを使って間接的にその聖域の中をコントロールされている様に感じられました。
間接的コントロールであるが故に、そのブラックボックスの中の音楽は個々の音それぞれの必然性が絡み合い、恣意的な統制力が一切感じられない自然な音楽として聴こえてきます。
けれど、その世界観はソリストの解釈の内なのです。
このブラックボックス内への間接的なコントロールが「メタ的な表現アプローチ」とタイトルで用いたものです。
外側から内側全体に対して間接的に行うコントロールは、表現者の解釈の中にはあるものの、細部の音楽は独立した個々の音楽表現が自発的になされている=ソリストの意識しないところで行われている=作為が無い、というイメージです。
様々な音色が溢れるかのようなピアノの演奏はもちろん本当に素晴らしかったのですが(私がここで書くまでもないので他の方のご感想をご覧ください)、オーケストラを含めた全体の質感・世界観が余りにも不思議で不思議で…今まで感じたことがないものでした。
そもそもクラシックのコンサートを聴くのは今年になってからで、わずか数回しか聴いていませんけど…苦笑

第一楽章は「maestoso=荘厳」という事なのですが、私にはそうは感じられず、最も近い感覚としてイメージされたのが賛美でした。
荘厳はその対象自体が美しく輝いていますが、賛美はその美を「讃えるもの」「讃える状態」という間接性を持っているからです。
そもそも第二楽章も「Romance=異性(対象)への愛」ですから、その対象がの違いはっても、間接性を持った構造としては同じなのです。
これは音楽で得たイメージに対し、後から「あれを無理やり言葉にすると‥」と後付けしたものであり、角野氏の表現性を論理的に補完するために用いた言葉ではありません。あくまでも個人的なイメージです。
もちろん、第二楽章はそこに切なさや人としての感情的表現も加わってくるのですが、この構造性を伴う質感が、第一、第二と繋がっていたことが本当に驚きです。
ちなみに、私は音楽的にこれらを理解しているのではなく、あくまでも質感としてしか捉えられていないため、この段階でも「新たな音楽表現?それとも音響の影響?」という問いに対してはまだ6:4という割合でした。

第三楽章は「Rondo=舞曲」ということですから、角野氏の演奏における最も即興的な表現=グルーヴが堪能できるはずなのですが…
「なにこれ?!今まで聴いてきたのと全然違う!!!」と感じた所で、先ほどまでの問いに対しては「新たな音楽表現」という答えの確立がググーンと一気に9割までアップしました。
これまで角野氏のビートやグルーヴが発揮された演奏は、角野氏自身が奏でた音楽の内部に込むような感覚の一方で、その音楽自体は解放されていくイメージなのです。
これもある種の構想性を持っていますが、「自ら演奏する音楽を聴き、それに没入しながら演奏する」ということで常人にも理解はできるのです。
ところが、今回は角野氏の解釈世界の中のグルーヴに対して外側からの抑制=コントロールがありました。
これが本当に不思議なもので、本来ノリが小さい曲であればノリ自体が小さい(余りノリを出さない)表現になるはずです。
この時の演奏では、角野氏本来のノリは聖域の中で発露しているのですが、表に出現するグルーヴは抑制されているのです。
つまり、普通だったらノリ=グルーヴとして5になるところ、ノリを9にしてメタ的に4抑制した結果としてグルーヴが5になる、みたいなことです。
表現をコントロールする行為として最初から5の値を目指していない。
自らが音楽に感じるノリをコントロールせずに無作為のままブラックボックスの中では9としながら、外側からの間接的コントロールで最終的な結果を5にしている感じ。
いや、もう…私もどう書いて良いのかわからないのですけれど。。。
第三楽章として体感し得る音楽が持つそもそもの質感の変化に対し、抑制されたグルーヴ+音楽表現によって調和がもたらされ、第一楽章から第三楽章までが一つの完成された世界として感じられました。

その後ソリストアンコールとなるのですが、最終日ということもあり、オーケストラとともに演奏されたバーンスタイン「キャンディード序曲」とピアノソロ「 I Got Rhythm」でした。

その演奏と興奮は他の多くの皆様が書いてくださっているので省略させて頂きますが(すでに20,000字超)、このアンコールによって「新たな音楽表現?それとも音響の影響?」という問いは、完全な100%の割合で「新たな音楽表現である!」ということが確定しました。
なぜなら、このアンコールの演奏では私がこれまで角野氏の生演奏で感じてきたリアルなビートやグルーヴが表現としてダイレクトに伝わって来たからです。
今まで解釈の世界観の中で響いていたものが、一気に解放された感じなのです。
アンコールの演奏では、芸術の聖域は角野氏個人の内側として内在するだけで、その音楽自体が奏でられて欲しいだろう質感をただ無心に楽しまれている表現でした。

作品の解釈をめぐる統制的表現については、私の「ピアノソナタ第2番」の鑑賞経験がとても影響していますが、本筋の理解としては無くても問題がないので、引用ではありませんが小文字で記載しておきます。

「ピアノソナタ第2番」は曲自体が様々な要素から成り、制作年が違うものを後でまとめた構成のため、統一感を持って美しく弾くことも表現として重要だということをネット情報で知りました。
ショパンコンクールでの反田氏の演奏は全体から美しい調和・曲全体を通したコントロールのようなものが感じられたのに対し、角野氏の演奏からは様々な要素に対してコントロールを感じず、実際に感情や感慨がその時々にフッと思考の外から現れる感覚に近い、実際に親しい人の死を目前にした送る側の気持ちに寄り添う表現に感じられました。
その後、昨年のツアーファイナルで演奏された際には、様々な要素に対する表現性はそのままでありつつも、繋がりがとても自然に感じられ、人の一生に起きた様々な出来事が一美空ひばりの「川の流れのように」の歌詞のように続いている印象でした。

また、私がツィンメルマン氏の演奏が好きだと感じられた理由は、第1楽章の中に第2楽章的質感を感じられたことを考えても、角野氏のソナタ第2番と同様に曲そのものが持つイメージや質感をそのまま表現している様に感じられた為だと思っています。
ツィンメルマン氏の演奏も作為を排したなかで情緒的表現がなされている様に感じられ、楽章としての意味合いよりも個別の小さな音楽モチーフの質感の方が聴き手に伝わったという事ではないでしょうか。

私にとってクラシック音楽における「解釈」とは、演奏者個人の恣意的な表現性に直結する言葉として余り良い印象ではありませんでした。
ですから、角野氏が解釈を行なったと思われる今回の表現については、他お方以上に敏感に感じる部分があったのです。
私の好きか嫌いかを分ける最も核となる条件が、表現性の中に恣意的解釈を感じるかどうか、だからです。

一通りコンサートの内容を巡った所で、改めて「“refined beauty(洗練された美)”はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」という意味を考えてみます。
「refined」には「洗練された」という日本語訳がついていますが、あえて英語を添えられた意味を知ると、これがもう…とんでもない事なのです。
演奏を聴いた時「パラドックスと思われるようなことをやってしまう人がいるのか?!」とその衝撃を書きましたが、その時は(書き始めたのはコンサートの翌日)まさか角野氏が意識的にそれの表現を志向していたとは思ってもいませんでした。
連日の演奏により偶然的な結果であればあるかも…と。
オーケストラを巻き込んで意識的にできるなんて思ってもいなかったからです。
ですが、この言葉の中からは角野氏がこのコンサートの表現意図として当初から「メタ的な表現アプローチ=パラドックスみたいなこと」を志向していたことが読み取れるのです。
「refined=洗練」とは、「refine=精製する」という人為的行為を経てた意味であり、「noble」の様なもともとの質感的な意味より「人為的」なことに重きが置かれている言葉だと思われるのです。
しかも、美学を舐めた(かじるまで行かない)者からすると、refine「re」の中には、神による創造の模倣(相似形)という意味合いが多分に含まれていることが伺えるのです。
私は英英辞書や英語の語源を調べることはできないので確信的には語れないのですが、たぶん。。。(英語力があれば調べられるのですが、ちょっと無理なので7割位の妥当性だと思ってください)
神の天地創造の模倣(相似形)として、自然の雑多な野蛮性から人間がそれらを再構築することで美(真善美が一体となる美学的な意味)をもたらす、という考え方で、人の手によって為される「文明」こそが称賛されるべき、という価値観が20世紀前半までヨーロッパを中心に広がっていました。

<文明と野蛮・未開>
伝統的に、文明は野蛮や未開と対置されてきた。ここには、高い文化を持つ文明の光と、その光が届かない野蛮や未開の闇という世界像がある。都市生活の素晴らしさや、野蛮・未開の劣等性を知識人たちが疑わなかった時代には、文明とは何かという理論的問題は発生しなかった。しかしそこが疑われるようになると、自民族・自文化中心主義をとりはらった文明の定義が求められるようになった。20世紀前半まで圧倒的に主流を占めたのは、劣った野蛮に対する優れた文明という見方で文明を定義するものである。歴史や社会の発展段階論に結びつくと、野蛮は未開とも呼ばれる。この見方は、ギリシャ、ローマと西欧(ローマ人対蛮族)に共通のものであり、また、中国の中華思想、朝鮮の小中華思想、華夷の別は王化に浴するかどうかで本国(いわゆる中国)と周辺服属国(夷)、独立地域を分けた。
これらの思想は自文明中心主義と結びついて周辺支配のためのイデオロギーとなった。文明概念は、文明人は野蛮人より、文明国は未開社会より、優れた道徳的規範を持ち、優れた道徳的実践を行なうと想定する。文明は、人道的、寛容で、合理的なもので、逆に野蛮は、非人道的で、残酷で、不合理なものとされた。文明側の自己讃美は、それが文明人の間の行動を規制するために主張されたときには、道徳性を強める働きをしたが、野蛮人や未開人に対して主張されたときには、文明人による非人道的で残酷な行為を正当化することがしばしばあった。

wikipedia「文明」

私が(理解できないまま)度々言及しているレヴィ=ストロースの「野生の思考」は、原題が「Pensée sauvage」で本来は「Pensée=野蛮人」と訳されるものの様です。
西洋の文明主義の根底には、野生がそのままな状態は野蛮であり「美(美学的な意)」ではない、というギリシャ哲学以降受け継がれてきた価値観があり、それに対するレヴィ=ストロースの反旗です。
日本では自然を愛でる感性を当然のように受け入れているため、そのこと自体に驚きますが。。。

野生の思考La Pensee sauvageは、1960年代に始まったいわゆる構造主義ブームの発火点となり、フランスにおける戦後思想史最大の転換をひきおこした著作である。
Sauvage(野蛮人)は、西欧文化の偏見の凝集ともいえる用語である。しかし
植物に使えば「野生の」という意味になり、悪条件に屈せぬたくましさを暗示する。
著者は、人類学のデータの広い渉猟とその科学的検討をつうじて未開人観にコペルニクス的転換を与えsauvageの両義性を利用してそれを表現する。

野生の思考とは未開野蛮の思考ではない。
野生状態の思考は古今遠近を問わずすべての人間の精神のうちに花咲いている。
文字のない社会、機械を用いぬ社会のうちにとくに、その実例を豊かに見出すことができる。
しかしそれはいわゆる文明社会にも見出され、とりわけ日常思考の分野に重要な役割を果たす。

Amazomの紹介文(=本書カバー裏の解説)

上記には「コペルニクス的転換を与えsauvageの両義性を利用してそれを表現する」と書かれていますが、この論理を用いると角野氏は最初からこのコンサートにおいてパラドックス的表現に挑戦していると考えられるのです。
「refined beauty」は文明的な美という意味になるはずで、そこに「意識しない」という人為を廃する言葉を用いているのです。
「“refined beauty(洗練された美)”」と、人為性を含む英語をあえて命題とした上で「意識しないところから発する」という真逆の行為を解として用いているのですから。。。
レヴィ=ストロースが文明外の文化に価値を認めたのに対して、その次の一歩として何をすべきなのか。
私たちが文明の中にある以上、野生そのものをリスペクトするだけでは何も成し得ないのです。そこで、文明内の価値観という前提提条件のなかに、無作為=野生的方法論を用いたのが角野氏の表現だと考えられるのです。

たしかに、当初からそういう読み取りが可能な状態でSPICEの記事は示されていたものの、質感的意味合でこの言葉が用いられた可能性を否定できなかった為、私はこの表現が今回のツアーでの偶発的結果なのか、角野氏の意図した今後目指すものなのかを問えませんでした。
検証素材が無いにも関わらず「角野隼斗の意図と考えられる」と書いたら、冒頭に書いたプロセスへの介入に他ならないからです。(このnoteも当初はコンサートタイトルをメインにしていたのはその為)
しかし、来年のソロツアーのタイトルが「Reimagine」と発表されたことで、「refined」を用いた「美」への形容は質感的意味合いよりも人為性にあることが読み取れるのです。
なぜなら「Reimagine」の「Re」からは日本語訳ですら質感的な意味を持たず、「再現・再生」という形而上学的な意味合いが存在するからです。そしてこの二つは「Re」の用いられ方に共通する対として解釈できるからです。
これににより「ポーランド国立放送交響楽団日本公演ツアー」の芸術性がコンセプトにまで拡張されているという確信を得ることになり、私は自己の芸術受容・芸術解釈をここに投影することができます。
「角野隼斗氏はこのパラドックス的な方法論・コペルニクス的転換を、21世紀の新たなクラシック音楽の表現としてこのコンサートで試みた」「その試みこそががメタ的な表現アプローチである」と。
※ちなみに、コペルニクスはポーランド人だそうです。笑

私はこれまで「ナチュラル」という言葉で、「解釈を思考しない」という表現性においてのみ作為性を排除する可能性を示してきましたが、前述のように再現芸術の表現としての深みは失われる可能性がある訳です。
冒頭に「コンクールのファイナリストになって欲しかった」と「ファイナリストにならなくて良かった」が同じ意味であると書いた様に、クラシック音楽において「アカデミックな(歴史的な)解釈を踏襲する」も「アカデミックな(歴史的な)解釈を思考しない」も、対義です。
その難問を角野氏は軽々と超えてきました。

これが何を意味しているのかと言えば、本当の意味で再現芸術を他の音楽行為(あえて動詞)と同じフラットな扱いにできるという事に他なりません。
コントロールされた解釈の内に無作為的な表現性を取り込むことで、どちらも自由に自在に音楽表現の中で成立させることができるのです。
再現芸術においてもアレンジのある音楽においても即興音楽においても、クラシックもジャズもポップスも、解釈することもしないこともどちらも可能・自在という表現性を角野氏が手に入れることで、あらゆる音楽への姿勢を完全にフラットにすることができるという訳です。
これこそが、あらゆる条件に囚われない本当の意味での「自由」です。

なんというか、、、一般人としての自分の思考の浅さ・限界に改めて気付かされましたね(比べるな! 笑)。
とはいえ、私には無理な思考でもそれなりに頭の良い人であれば概念構築自体は可能だったとも思われます。
ただし、実際にそれを表現として具現化できてしまうところが、もう本当に天才!!としか言いようがなく……。
コンサートの直後以上に、来年のツアータイトルが発表された時の方が大きな衝撃だったかもしれません。。。

ただ、この表現はまだ最初の一歩だと思われます。
個人的にはブラックボックスの殻がちょっと厚かったかな…と。
もう少し薄かったら、フラジャイルな程まで薄くできていれば、ここまで間接性が意識されずにその角野氏の表現に没入できたと思われるからです。
でも、この構造性に気づくことができなかったかもしれず、私的には今の段階ではちょうど良かったです!(神様ありがとう!!!)
ちなみに、ここで書いている事はイメージなので私自身が「殻が薄い」という状態がどういう音楽表現になるかなど、全くわかっていないことだけは補足させていただきます。
いつか「うわ〜〜〜殻が薄くなってる!!」と叫ぶことでしょう。笑

本来であればここで終わりたいのですが、角野氏のこの表現性がコンサート全体としてなぜ実現できたのかについて少し書いておきたいと思います。
これこそは表現プロセスの問題なので語るべき事ではないのですが、放置することは逆に変な憶測を呼びそうな気もするので、あえて「聖域に立ち入るかどうかギリギリ」の所で。

私は最終公演しか観ていないものの、ご感想からは「親密的」に変化していく様子が語られているので、角野氏が志していた表現が回を増すにつれ具現化していった様子が伺え、結果として、ポーランド国立放送交響楽団が持っていたであろう民族色ある音楽性は抑えられた、という事がぼんやり感じ取れます。
というのも、「オーケストラのための序曲」も「新世界より」も、事前に予習で聴いていた音源とは全く違う質感だった為です。
特に驚いたのは「新世界より」で、私は毎夕「家路」のあのメロディを聴いている為、予習でも数種類の音源でもその部分は常に日常に戻されてしまう感覚があったのです(海外オーケストラの演奏でも)。
ところが、この日に聴いた第二楽章は洗練されたリズムワークというか、音一つ一つの捉え方が本質的に違うというか、とにかく全く「家路」に聴こえて来ず、抑揚が抑えられた洗練された音に聴こえてきました。
そして、角野氏が意識的に試みたであろう「ピアノ協奏曲第1番」のオーケストラの質感との調和が、角野氏が参加されていない他の2曲に対しても十分に感じられたのです。
ところが、オーケストラのアンコール「ハルカ マズルカ/高地の踊り」ではその民俗的な表現やビートが遺憾無く発揮された素晴らしいもので、このことから、本編の演奏質感(細部への意識が研ぎ澄まされた調和のある表現)が統一性をもってコントロールされたのだろうと解釈したのです。

ポーランドからのリハーサル動画や、コンチェルト以外の2曲の選定を考えてみても、当初この日本公演はポーランドの民族性を表現する指向性が感じられました(広告にも「スラブの響きに感動必至!」とあります)。
プログラムからは、ウクライナの状況とスラブの歴史を芸術表現に重ねる意図などもある程度考慮の上でディレクションが行われるはずだったことがなんとなく伺えるのですが、結果は違っていました。
ソリストである角野氏によるオーケストラ全体へ働きかけがあったのか、角野氏の音楽性自体がオルソップ氏の導きなのか、それを言及することはプロセスへの介入になるため行えません。
ただ一つだけ言えるのは、何がきっかけかはわからないものの、明らかに角野氏の革新的な表現を際立たせていたオーケストラの演奏だったという事なのです。

ファンの想い入れとしてボーダーギリギリの部分で書かせて頂くと、その可能性の一つとして考えられることは、ただひたすらに自己の表現に真摯に立ち向かうソリストとその革新的な表現を目の当たりにして、同じ方向で表現を志さずにはいられなかったのではないかな…と。
芸術の新たな扉が開かれるかもしれない現場に立ち合ったら、芸術に携わる人であれば誰もがきっと、一緒にその扉を開きたいとお感じになったのでははないでしょうか。
これはあくまでもファンとしての私個人のロマンです。笑
まあ、対象が芸術の場合はこの位まではギリギリ許される気がする、という所でしょうか。
「アトリビューション(帰属)の可能性を広義なまま保留する」という意味において。。。

私たちは物事の原因と結果との関係性を理解して「わかった!」と実感する事がほとんどですが、唯一芸術のみが原因と結果の因果関係とは関わりなく(原因と結果が繋がる事を否定する訳ではない)「実感」を与えてくれるのです。「理由はわからないけど、そう感じる!それが好き!それが心地よい!」という実感です。
逆に言えば、原因と結果の間に飛躍がなければ芸術では無いとさえ言えるほどです。
でも、昔の人々は皆そうだったはずなのです。
月の満ち欠けの理由なんてわからないままに、その変化を実感として受け入美しさを愛でている訳ですから。
昔の月は芸術で、現代の月は天体です。
でも、個人のロマンの中では今でも時々芸術です。笑

ポーランド国立放送交響楽団の皆様 マリン・オルソップ氏 角野隼斗氏のおかげで、新しい時代の幕開を感じる演奏を拝聴することができました。
信じられないほどの驚きと感動とともに!!
本当にどうもありがとうございました。

<追記1>

ポーランド国立放送交響楽団 大阪:ザ・シンフォニーホールで収録された「ショパン: ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 作品11」が
10/27にYouTubeと主要音楽配信サービスにて公開。

曲の全体的な印象は会場で聴いたものとほぼ変わりはありませんでしたが、とにかく席がひどかったので(近いうえに舞台の外側=席の正面は舞台の端の壁の外という状態)、この素晴らしい録音によってようやく「音楽鑑賞」ができたような気がするほどです。ありがとうございます。
この時は不確実な感覚なまま「たぶん‥」という状態で書いてしまいましたが、とても深く新たな解釈がなされた表現(現代的解釈を持ちつつもプリミティブな体感性を損なわない表現)なのだと改めて思いました。
世界中の方々が、この演奏に驚き・感動されることでしょう。
新たな扉がここに開かれた!と。
この瞬間に立ち会えたことに感謝いたします。

YouTubeではポーランド国立放送交響楽団とイープラスミュージックの著作権表記がなされていました。
表示がなくてもContent IDで管理されていますが、表示されていることに意味があるということです。
無料公開、本当にどうもありがとうございました。

12月21日発売のアルバムは初回盤と通常盤があり特典も販売元によって変わる為、詳細はオフィシャルサイトでご確認ください。

SPISE「【千秋楽/大阪REC 追記】角野隼斗×マリン・オルソップ指揮 ポーランド響が届けたショパンピアノ協奏曲第1番!」も音源リリース&YouTube公開にともない、追記されました。

<追記2>

本編「メタ的な表現アプローチへの私観」の冒頭部にには下記のことを書いています。

これまでの角野氏の音楽は、「角野隼斗氏による新たな芸術表現〜」で書いている様な「音楽の持つメロディや質感がこう演奏してほしいと言っている声」をそのまま引き出して演奏すること、表現者の存在が透明性を帯びている、介在者の存在感が極めて低い、と感じられるものでした。
      (中略)
しかしながら、それでは再現芸術の「解釈」を放棄しなければなりません。解釈を放棄した即興的表現を尊ぶということは、その一方では深みのない表現性に陥る可能性もある、表現に限界があるのです。
      (中略)
結論からいえば、角野氏は本来のクラシック音楽の表現性にもとづく「表現者個人の解釈」を取り戻したのだと感じられます。しかも、その表現における無作為性を放棄することなく。

なぜ、これまでとは違う「解釈的表現」を取り戻されたのか、本編を書いた時点では全くわからないものでしたが、10/25にプレミア公開された厳選クラシックちゃんねる「角野隼斗×BBC Proms ロングインタビュー in London」内「イゴール・ユゼフォヴィッチ氏×角野隼斗氏:曲をどう解釈し演奏するか?(頭出し)」でのやり取りが、一つのきかっけだったのでは?と思える内容でした。
角野氏がその表現にに至ったプロセスとして考えると聖域に踏み込むことになるのですが、この「解釈的表現」の本質がどこにあるのか、その表現アプローチの変化そものを理解する上ではとても重要で参考になる素晴らしいインタビュー動画と言えるのではないでしょうか。
「世界を平和にする第一歩」にも寄稿されていた「見知らぬ人と出会い、歴史に学ぶこと」に書かれていた外界からの影響、人との出会いを一番重要とされていることの結果が角野氏のその表現であると、改めて思いました。

最悪はお蔵入りになっていたかもしれない素晴らしいインタビューを、「スタッフ総力戦」で準備・公開してくださった、厳選クラシックちゃんねるnaco氏には心からの感謝です。ありがとうございました。

<おまけ>
下記は、9/17のストーリーズに余りにも感動してしまい、「おまけ」として記載しようと思って残していたメモです。
なぜこのストーリーズにこれほど感動したのか、この時にはわかっていませんでしたが、たぶん、プロの音楽家という立場も解釈も表現も一切のしがらみのないままに、私人としてのア・プリオリな表現衝動、結果を問わない理由なき動機が純粋に伝わってきたからなのかもしれません。
プロフェッショナルな姿勢で芸術表現をどれほど追求されても、無為な表現性を常に持ち続けられている所こそが、もしかしたら最も希代なことと言えるのかもしれません。

Instagram @cateen8810 9/17ストーリーズよりスクリーンショット

前日、闘病中の坂本龍一氏がクリュッグ シャンパーニュとのコラボ動画で久しぶりに姿を見せたというニュースを目にしていた所、松本への動画とともに聴こえる坂本氏の「Aqua」が本当に美しくて切なくて…
松本では宝石の様に美しいぶどうを差し入れされたとか。
ここでは解釈などは関係なくて、動画も音楽も次第も祈りも…ただ一つの美しい存在として私に語りかけてきました。
ショパンコンクールの為に初めて降り立ったワルシャワの夕景に、ハニャ・ラニ氏の音楽を添えられた時と同じ深い感慨で。

もちろん、今回も即「 Aqua」は購入して夜中にリピ中! 笑


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略