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帰還

「今週は忙しかったし、体調も万全じゃないので無理です」

職場で一番の可愛い女の子にやっとのことで連絡先を聞いて、何処かへ遊びに行こうと誘うこと3回目。脈が無い、素っ気ない、塩対応という言葉が相応しいそのメッセージは、俺の精神の骨格を粉砕するには十分な破壊力を孕んでいた。

金曜日の夜に断りの連絡を受けて、奇跡が起きればデートになるかも知れなかった土曜日の朝は布団から起き上がれなかった。
もう5年以上は変えていないアイフォン8の連絡先の中から数少ない高校時代大学時代の旧友の連絡先を片っ端から引っ張り出していく。

「今何してる?」
「起きてる?」
「ヒマ?」

誰からも返事は帰って来なかった。当然だ。同年代の友人たちは皆フルタイムで働いているし、子供を育てている奴だっている。30代半ばも過ぎようかというオッサンが恋に破れた話に構っている暇など無いはずだった。

12月にもなり北国では雪も降ろうかという時期なのに、バイクで長野に向かおうとしていた。バイク仲間が絶景自慢の写真をSNSにアップしていたのだ。俺もその写真を撮って、今度は彼女に見せてみよう。

そんな無茶な旅路を無計画で実行に移そうと、全身全霊を込めてベッドから起き上がり、朝食を作り、着替えてバイクの鍵を握っていざバイクで南アルプスの山々へ挑戦しようかとバイクのキーを手に取った時、大学時代の親友の一家からラインが来た。
「イクスピアリで買い物してる、一緒に来る!?」


関東の山奥から出発する強行軍がさらに奥地へのデスマーチ観光は、千葉のネズミの国門前のディナーツアーになった。

3歳児と小学1年生、とんでもなく元気に走り回るが未就学児のような危なっかしさは無く、こちらが名前を呼べば反応してくれる。友人夫妻も、何か大きな声や不機嫌や怒りで子供たちをコントロールしようとすることはない。自由で素晴らしい家庭だと思う。

「漢字読めるようになったか?」
「読めるよ!コレ「口(くち)」でしょ!
「ロコモコの「ロ」だよ!」

義務教育の中でどれだけ人間社会に溶け込んでいる能力を習得しているか、ジョークのような会話で確認していく。

ファミリーレストランでも他のお客さんが座っているテーブル席をガンガン探検しに行こうとする長男と、ネズミの国の国境近くまで来るために子供用のお姫様のドレスを着用していたが、ドレスが汚れて悲しい顔になる3歳の妹。
だが彼らの両親は声を荒げて怒ることもなく淡々と長男をテーブル席に戻させ、妹を着替えさせる。

駆けずり回るピカピカの1年生男児の服装はお世辞にも清潔とは言えず、くたびれたパーカーに擦り切れかけたジーンズ。だが彼の表情には曇り陰りは無く、俺が携帯で見せたバイク旅行の景色の写真に目を輝かせていた。

デートの誘いを断られた話をすると、旦那の方から「そのうち良い人が見つかるよ」的な、もう何十回目になるかわからない励ましの言葉を貰った。その激励を素直に信じる気力はもう無かったが、暴れ回る幼児2人と過ごす時間は慌ただしく、気落ちしている暇が無かったのはむしろ有難かった。

イクスピアリの外れにある劇団四季の建物との連絡通路のような場所で、友人一家と別れた。2人の子供と一緒に、俺がエスカレーターでお互いの姿が見えなくなるまで手を振っていた。
もはや首を括るだの飛び降りるだのの手段でもって、手前の人生を手前で終わらせようという青さはもはやオッサンには残っていなかったが、心配してくれた友人と、彼らの子供が大きくなっていく様子を見届けるために、これからの人生を凌いでいくという、決意を貰ったような気がした。

東京湾に面した異国の門を後にして、12月の冷たい風に耐えながら湾岸線を突っ切って、職場近くのアパートまで帰還した。孤独だが暖かい我が家へ。

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