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涙に濡れた寝室で

2021年1月中旬

産婦人科の医師から伝えられた言葉を、消化して自分の言葉で伝えてくれた妻。
それをそのまま重く受け止め帯を締め直した私。

こんな状況でも相変わらず夫婦をやっていた。
夫婦をやれていた。

その日は珍しく寝室で二人で疲れ切るまで泣いた。
闘病生活が始まって初めてのことだった。
堰を切ったように溢れ出す涙が冬の寝室の湿度を上げていった。

「赤ちゃん、出来なくなっちゃうね。」


妻が絞り出すように、空気に吐いたその言葉がきっかけだった。

新婚生活も落ち着いてきた2020年3月に行く予定だった、新婚旅行後に本格的に妊活をしていこうとしていた。

その頃からお腹の痛みを訴え始め、そのまま闘病生活に入った。
ライフプランなんてものはこの頃にはぐちゃぐちゃになっていた。

妻と一日でも長く幸せな日々を送れるように。
そこにフォーカスして過ごしていたので赤ちゃんという存在はとうに考慮から外して生活していた。

妻の一言でグッと引き戻されて目眩がした。

そうだ、私たちは子供が欲しかったんだ。

妻が年上ということもあり、悠長なことは言ってられないと思いプロポーズをしたことも思い出した。

結婚前後の日々が走馬灯のように巡った。
築地の鰻屋、渋谷のコンサートホール、大手町の料亭、用賀のフジスーパー、ひとり寝過ごして着いた終電の長津田、二子玉川の花屋、二子玉川のbills、瀬田交差点、松陰神社。

気付いた頃には抱き合って嗚咽を上げながら泣いていた。ふたり。

決断まではまだ時間があるから、考えよう。
ここまでやってくることが出来たから、きっと由理ならこの手術も乗り越えられる。
子供のことはとうに要らないと思っているし、今が幸せだ。
手術を受けても受けなくても、ここまでの努力は本物だから、受けなくても決して逃げたことにはならない。
どんな決断でも尊重するし俺は一生添い遂げる。

そういった旨を妻に伝えた。

ありがとう。ちゃんと考えるね。

妻もいつもの調子で答えてくれた。

この日から、本当の意味で伝え合える状態になったように感じている。
夫婦としてひとつの覚醒をした日だった。

冬の多摩川。この頃からランニングを始めて妻にLINEで写真を送っていた。

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翌日。
どんな重い現実があっても変わらず朝は来る。

私はいつも通り快眠だったが、妻は痛みもありうまく眠れなかったようだ。

私自身がよく眠れていたのが、毎日の闘病生活を支えるにあたって大きく作用していたように思える。


「手術受けるね。一緒に頑張ろう。何かあったらよろしくね。」

「わかった。ありがとう。一緒に頑張ろう。」


長く悩むより、決意をすることで次に進む。
妻は自分の命を優先する決断をした。
堪らなく嬉しかった。

まだ戦える。
手立てがある。
それを選ぶことができる。
選んでくれる状態に今ある。
自分の存在をあてにしてくれている。

すべてが幸せなことだった。

何かあったらよろしくね。
なんとも妻らしい言葉だった。
不安要素についてはすべてを任せて欲しかったので嬉しく響いた。

調子のいい日には散歩をした。この日は駅まで歩けて嬉しそうだった。


また日常がはじまる。

私は仕事に向かい、妻は出来る範囲の家事をし、両親に送迎してもらい病院へ行く。

来る手術の日に備えて、日々を噛み締めて過ごした。




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