見出し画像

カンボジア生活記🇰🇭3

アンコールワットという魔物に魅了された翌日の出来事である。昨晩はとてもよく眠ることができた。まるで赤ん坊のようにスヤスヤと寝息を立てながら眠っていた。目を覚ますと辺りは少し明るくなっていた。どこからか聞こえる鶏の鳴き声が朝だということを更に自覚させる。
時刻は7時。健康的な毎日だ。身体を起こすと昨日の疲れがドッと押し寄せてくるのがわかる。疲労で感じる達成感は果たして本当の達成感なのか。そんな話はまたいつか書こうと思う。

私たちは8時までに全ての準備を済ませ目的地へと向かった。そう今日はご縁があり、カンボジアの村にある小学校にお邪魔させてもらうことが可能になった。
つくづく思う。人と人との繋がりっていうのは不思議なものだと。

少し時間軸を過去に戻す。まだ私がマレーシアにいた頃、ある日本人と出会った。
真っ黒に日焼けしていて何よりも旅慣れてる感が満載の彼は現代の言葉で表現するならば「パリピ」と呼ぶにふさわしい見た目だ。そんな彼も東南アジアを放浪していて、たまたまここにやってきたというだけなのだが。そんな彼は私と同い年ということもあり、話が弾んだ。彼からはたくさんの情報を頂き、様々な場面で参考にさせてもらった。タイ編でRPGを体験した「ピピ島」も彼の一声で決まった。

そんな彼がカンボジアに行った時に出会ったのが今回の小学校だ。そんな彼の協力もあり、私もチャンスを頂けたのである。不思議な縁だ。人間と人間の繋がりは簡単に視覚化することができない。だからこそどこに自分のチャンス、ピンチが眠っているかわからない。そして人間は人間無しで生きていくのが困難な生物だ。だからこそ人間関係は重要なポジションであると私は個人的に考えている。

そんな人間関係から生まれた今回の一件は私の価値観を変える出来事になった。

時間軸はまたカンボジアに戻る。

私は集合場所に向かっていた。このアジアの匂いもまた私の記憶に刻まれるのかと思いながら歩を進める。到着して少し経つと今回私の要望を快く引き受けてくれた加藤さんと落ち合った。

そう。今回の小学校は紛れもなくこの加藤さんが1から作り上げた小学校なのである。カンボジアの僻地の村に日本人が作り上げた小学校の話であるのだ。

昨今、SNSやテレビ、または紙面を通じてこのような活動をしている日本人が少なくないことはこんな私でも知っていた。海外に出たことのない日本人でも知っている人口の方が多いのではないかと思う。
しかし、実際に対面するのは初めてであった。

正直に言おう。私はこういう活動に少しばかり疑念を抱いていた。
偽善の振る舞いなのではないか?活動費の捻出は?すぐに潰れてしまう学校も少なくないことも何と無く知っていた。仮に定住していたとしてもその学校が彼らの生活を支えているのであれば、それはただの偽善ビジネスなのではないか。などと。

ただそんなことはもちろん伝えはしない。実際に見てやろうと思ったからである。

朝食を済ませバイクを走らせること20分。もう辺りは何もない。舗装されていない道を砂という自然のシャワーを浴びながらひたすらに走る。観光客など皆無の世界。これが本当のカンボジアの姿なのかもしれない。聞こえる言語は一つもわからないクメール語と私たちの少しの日本語。まるで海のような大きさの草むらには牛や鶏。私が今どこにいるのかすらわからなくなってしまうような光景を目の前にしていた。
さらに走ること40分くらいだろうか。アンコールワットの影もないような場所に来た。少なからずわかる情報といえば発展が感じられないということくらいだ。いや、そのことをすぐに感じられるほどアンコールワット周辺とは大きな差があった。

到着すると顔にペイントを施した子供が出迎えてくれた。名前は未だにわからない。ただ彼女はそんなもの必要ないよと言わんばかりの笑顔で溢れていた。とても印象的な瞬間であった。言語は全く通じない。それでも仲良くなれた。
どうやら就学前教育というのは存在しないらしい。小さな子供は皆自由に時間を過ごしている。ハンモックに横になっている子供もいれば、遊んでいる子供もいる。

幼少期を日本で過ごした私からすればとても不思議な感覚だ。こんな世界もある。いや知識としては知っていたはずだ。しかし実際に目で見るのとは全く違う印象が違う。頭の中に心の中に入ってくるエネルギー量が何倍、何十倍、何百倍にもなる。

百聞は一見にしかず

とはよく言ったものだ。これが本当の言葉の学び方なのか。そんなことをふと思ってしまうほどその様子は印象的だった。

学校に案内されるとたくさんの子供達が遊んでいた。どうやら休み時間のようだ。サッカーボールを蹴る子、木陰で休む子、水を撒く子、皆それぞれだが総じて表情がよく見えたのはきっと私だけではないだろう。
明らかに日本の同世代の子たちよりは貧しい。誰が見てもわかる。しかし日本の子供達より表情が明るいのだ。遊びに対する制限も、未来に対する不安も、お受験に向かうプレッシャーもないからなのかもしれない。

本当の意味での子供らしさをそこに垣間見た気がする。授業の時間になると皆一斉に教室に走っていく。どうやら一年生と二年生しかいないみたいだ。一年生の授業を覗くと落ち着きは全くなく休み時間の延長のように皆が遊んでいる。先生の質問には皆が大きく手をあげてアピールをする。笑ってしまう。活気があって楽しいのだ。

裏で行われている二年生の授業を覗いてみると皆きちんと座り、しっかりと課題に向かっている。落ち着きが違う。さっきまでは皆一緒に遊んでいたのに。また思わず笑ってしまった。一年でここまで差があるのか。

教育の力を初めて知ったのは間違い無くこの日であった。


たった数十分の授業の中に様々なドラマがある。それは日本のそれとは少し違う。同じ子供でも育ってきている環境が違うのだ。ここまでリアルに鮮明に激しくみることができたのは間違いなくここに来たからだ。

時間はあっという間に過ぎる。彼らとサッカーをしたり紙飛行機を作ったり、抱っこしたりできる限りコミュニケーションをとったつもりだ。
彼らにどのように伝わったかは今となってはわからない。ただ少しでも楽しい時間を共有できたのなら幸いだ。いつか聞いてみたいものだ。

彼らが帰路に着いた後、村の中を案内してもらった。そこでは私たち日本人では想像しにくい生活スタイルがあった。水は?家は?家族は?食事は?仕事は?
様々なことが気になった。

だが文章で細かく伝えることはしない。私はここで「百聞は一見にしかず」という言葉の真の意味を学んだからだ。興味があるなら行けば良い。こんな記事を読むよりも何千倍も大きな理解を得ることができる。

この時には私の疑念は無駄なものだったという答えが出ていた。それもまた子供達、学校、村を見ればわかると思う。特に加藤さんと村の人々たちとのコミュニケーションを見れば一目瞭然だ。私は何を言っているかさっぱりだが、表情でわかることもある。

加藤さんがこの村にどれだけ貢献してきたか、どれだけ時間をかけて来たのか。きっとこんなものは実際に見るまでわからないのだ。誰も。卒業生が働きたいと言って加藤さんの元に戻って来たり、歩くだけでたくさんの人々が声をかけてくれたり、全くの部外者である私たち日本人を快く受け入れてくれたり、正直計り知れない。実際の歴史、建設の様子、細かな金額、現状。たしかに私はこの身体を使って吸収した。
とてもじゃないが偽善のビジネスモデルにしては効率が悪過ぎるし収益も見込めない。私はここにくるまでの自分に喝を入れたくなった。

10周年を迎えるこの小学校。「イキイキスクール」

その陰には10年前にこの村に惚れ込み、熱くなった日本人の物語があったのだ。
その物語は私の口からはどうしても伝えることができない。そう。リアルではないからだ。とてもじゃないがあの迫力、情熱を事細かに伝えることはできない。

ここでは熱くなった人間の物語とそこに住む人々の変化、現実、学校と教育を知ることができる。何よりも私たち日本人が忘れかけてしまっている「楽しむ」ということを子供達に改めて教えてもらえる。何が良くて何が悪いのか。そんなものは一度忘れてしまえ。1度子供に戻って裸足になって、服を泥だらけにして汗をかいてビショビショになりながら大自然の中でイキイキした子供達とその瞬間を楽しむのだ。

彼らにとってはなんら変わりのない1日だったかもしれない。しかし私にとっては何にも代え難い大きな1日であったことをここに記す。

「オークン」(ありがとう)

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

10

なかしまゆうすけ🇿🇦

この世界のどこか🇵🇭🇲🇾🇹🇭🇰🇭🇻🇳🇱🇦🇲🇲🇳🇵🇮🇳🇲🇻(🇱🇰)(🇴🇲)🇮🇷🇦🇿🇬🇪🇦🇲🇹🇷🇧🇬🇨🇾🇮🇱🇵🇸🇯🇴🇪🇬🇪🇹🇰🇪🇺🇬🇷🇼🇹🇿🇿🇲🇧🇼🇳🇦🇿🇦
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。