見出し画像

気づかいがケアになること

心の鐘がカンカンと鳴り出すとき、
『感情労働』ということばを思い出します。

久しぶりにそんな状態になったのですが、
ひょんなことで運命的に見つけた論文が大事な気づきをくれたのでシェアしてみます。

共有する読みものとしてはちょっと長いけれど、悩める誰かにとってしっくりきたら嬉しいです。
(リンクのあとはあくまで主観的な話です)


感情労働としての看護と、ケア倫理の実践としての看護,有馬斉(立命館大学衣笠総合研究機構ポストドクトラルフェロー),生存学研究センター報告書,2009

感情労働って言葉のみで、あまり深く知らなかったので、スミスさんよく言った!というのと、ノディングスさんはグサッとくるな~という感想を持ちました(笑)


それから、看護師以外の人はこの言葉をどれほど知っているのだろう、とふと思いました。
接客など他業種でも通じる話題ではあります。
ただ、感情を働かせる相手の利益不利益に、看護は生命が関わる点で良くも悪くも心への影響も強いように思います。


個人の話になりますが、
これまでは病棟看護師として、ひとつの場所で働き、上司も部下も同僚も看護師というなかで働いていたので、日々意識せずとも面談の機会やなにか起きた時の振り返りでそれなりに対処ができていたのだと思います(正確には他人任せなところもあったけれどなんとかなっていた)。
当時は嫌だったけれど、休憩室での愚痴の時間も、そのひとつだったのかも知れません。

今はコミュニティナースと名乗り、環境も変わり、対象や場も広がりました。
周りは看護師以外の人が多数を占めます。
やりたいからやっているし、実際に楽しい。苦手なこともやってみることに価値があるのだと思えています。
けれどこの状況は自分自身で気をつけないとバーンアウトになりかねないなと思いました。


論文にもあるように、看護師の気づかいが対象者のケアになることは恐らく一般的に知られていることだと思います。
そして「看護師」として出会った時点でそれを求められるし、看護師もそれを提供しようとするでしょう。

ただ、その気づかいは標準装備ではないのです。
そういう人もいるかもしれないけれど、私はもともと気分屋で天邪鬼にんげんです笑
(多分わかる人はわかっていると思いますが…)

アセスメントや時に直感的、経験則で、掛ける言葉や頷き、沈黙、視線、動作、声のトーン、周囲の環境…等々を選びとっています。

これは患者さんに直接伝えるべき内容ではないとは思いますが、
コミュニティナースのように日常に溶け込んでケアをする場合はちょっと弱音や愚痴を吐くことを許してくれる存在、一緒に考えてくれる存在が必要なのかもしれないなと思いました。

それはコミュニティナースや共感してくれる仲間かもしれないし、家族や友人、または面倒見のよいまちの人かもしれません。

ひとりで感情を背負いすぎないこと。
いつも気にしてもらえるのを待つんじゃなくて自分でちゃんと伝えること。
幸いにも周りは温かい人ばかりなので
私も勇気をもってやってみたいと思います。



ここまでネガティブ面の感情労働について書いていましたが、気づいたことをもうひとつ。

ポジティブな面での感情労働について。

コミュニティナースとして活動をはじめて、嬉しい度合いがかなり増えました。
それは看護師として、もあるけれどもっと自分に直結するような嬉しさ。

それは「やりがい」とは違う、くすぐったいような嬉しさ。
これはなんでしょうね。。。
また考えていきたいと思います。



最初に感情労働という言葉を教えてくれた大学の先生はその翌年か翌々年に休職されました。
噂では心を病んでしまったとか。


その方に何があったのかはわかりません。
けれど、講義中のその先生の表情がいつもに増して真剣で、その瞬間は忘れられなくて、こうやって思い出せて救われています。

どこかでのんびりされているといいなと思います。



ここ最近はちょっと気持ちが潜ってたけれど、やっといつもの自分に戻れそうです。

これからも、嬉しいことを嬉しいと言い合えたり、
つらいときはつらいと言い合えるように
自分を含めて周りの大切な人達を守っていけたらと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?