見出し画像

限りなく個人的な平成(-4年)の振り返り

これまで元号で大きく変わるものなんてないだろうと思っていた。それでも世間で“平成を振り返る”なんて特集をやっていると、節目として自分も何か整理をしたくなってしまった。
今、私はすごく幸せだと思う。だからこそ暗い部分を含めて個人的に振り返っておこうと思った。


子どもの頃から、私は未来に対して希望を持てないでいた。生まれつき病気があったわけではなく家庭に不満があったわけでもない。小さな事の積み重ねでそう思うようになってしまった。
はじめは要領の悪さ、不器用さだとか自分に向けたものだった。
それから、ニュースや新聞で毎日のように報じられるネガティブな話題。事件、事故、自殺、政治家の失言、汚職。環境問題、貧困や難民、少子高齢化。
いつ来てもおかしくないとずっと聞かされてきた東海地震。
自分の家では3代連続で、長女が若くして亡くなっていること。

そんなことがどんどん頭の中を支配していって、小学生のころには「なんて大変な時代に生まれたんだろう。私は大人になれるの?大人になってもこの先いいことってあるの?」
そんなことばかり考えていた。
(今もしそんな子がいたら大丈夫だよって思いっきりハグしたいと思う)

でもまわりにそんなことを話したら、大人には心配されそうだし、友達には暗い子だと思われそうでずっと心にしまっていた。それでも楽しく過ごせる時間はあったし、楽しめることは楽しもうとしていた。

そんな思いのまま高校生になって、あるときから病院にかかるようになった。そのときから心の奥に追いやっていた気持ちがまた出てきて、ああ、やっぱりそうかと諦めにも近い気持ちになった。

政治家の「女性は子供を産む道具」発言や、生物の授業で、自然界では優秀な遺伝子が生き残るようになっている、とか聞いたりして、次の世代を残せない(かもしれない)私っている意味あるの?なんて思ったりもした。極端な話、世界を見渡せば貴重な食糧や水を私なんかが頂いていいの?とまで考えた。世の中に同じように考えている人はいるんだろうか?この気持ちをわかってくれる人っているんだろうか?誰に言えばいいんだろう?という疑問もあったし、もっと気楽に考えれたらいいのにとも思った。

一方で生きる意味はわからないけれど、命を粗末にするのは絶対だめだと思った。自分が死んだからって誰かが助かるわけではないし、これまで私を大切にしてくれた人を傷つけることは絶対にしたくないと思った。

じゃあ自分はどうしたらいい?

大人になれたら、地域の人の役に立ちたい
大切にしてくれた人に恩返しをしたい
そんなことを小学生のころから思っていた。

大切にしてくれた人で一番先に思い浮かんだのは祖父母だった。父方の祖父母も母方の祖父母もいつも私に、
お姉ちゃんはがんばりやさんだね、お姉ちゃんなら大丈夫、まーちゃんは本当に優しい子だね、頑張り過ぎちゃだめだよ
などと声をかけてくれた。(癌はあっても今も4人とも元気で、同じように声をかけてくれる)
両親とはまた違って、無条件の優しさや愛情で包んでくれる存在だ。

そんな祖父母達が生まれ育ち今も過ごしているのが岡崎であり、私もそこに生まれた。だから岡崎で何かをしたいと思っていた。
自分の知識や経験、持っているものを使って誰かのためになったら…大きなことでなくてもほっと笑顔になるようなことができたら、それはきっと私の生きる意味になると思った。
(表現が難しいけれど、感謝されるために何かをするのは違うと思っているし、感謝してくれる人がいなかったら自分の存在意義が揺らぐとまでは思っていないけれど)

同時に、自分の暗い部分はきっと自分しかわからないけど、誰しもそういうものを持っているのかもしれないと思うようになった。そういうものがあると理解することはできても、その体験や感じているものは大切な人でも本当の意味でわかることはできない。暗い部分だけでなく楽しかったり嬉しいという体験もその人だけのもの。つまり誰しも孤独なんじゃないか、自分がそうだったように。そしてもしかしたら孤独ってその人を構成する上で必要不可欠なものかもしれないな…。

そんなころ、名古屋でCOP10が開かれていて、毎日のように「多様性」という言葉を耳にした。COP10の内容とは全く関係ないが、多様性は孤独を認める言葉のように思えた。世間には色んな人がいてそれぞれその人だけの深い何かを持って生きている。分かり合えたら嬉しいけれど、分かり合えないことも多様であってそれでよいのではないか。

今も昔もそうだけど、私は「これだ!」というものがあると一気に火がついて燃えるタイプのようで、保健師から慢性疾患の患者の看護、特に在宅看護に興味を持つようになった。それから多様な学びができる母校となる大学を知った。ここで学びたいと思った。到底受かるレベルではなかったけど、諦めることが何よりも嫌で、逆境にも燃えてしまいもう止められず、当時の担任の先生の熱血さもあり、クラスの仲間と応援し合ったこともあり奇跡が起きて合格することができた。

火がついた瞬間はその後も何度かあって、今もコミュニティナースに出会ってまた火がついている。

今も未来への不安も残るけれど、昔の自分に比べたらかなり少なくなった。

なぜだろう?

何も変わらないと決めつけて悲観しているだけでは本当に変わらない。
思いばかりあってもなかなか行動が伴わない自分だけど、それでもできる一歩を探すようになった。時に周りにお尻を叩いてもらいながら進める道を選んだ。
そしたら同じように痛みを抱えて自分と向き合いながら進んでいる人達が周りにいることを知った。そんな人達の存在が支えになっている気がする。

苦しくても何かを信じて諦めない人達がいる。そしてそれを応援したいという人達がいる。そんな未来が明るくないわけが無い。

次の新しい時代は
ネガティブなことをネガティブなままにしない。大人も子供も関係なくみんなでなんとかしよう。そういう時代になったらいいな。
いや、そういう時代になるはず!

以上、とてつもなく個人的な平成の振り返りでした~

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?