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八卦掌でグーパンしたっていいじゃない〜レイモンド・カーブリド先生ハワイアン八卦掌講座

昨日は、光岡英稔先生プロデュース、レイモンド・カーブリド先生によるハワイアン八卦掌講座に参加。

レイモンド先生による八卦掌講座の参加は2回目だが、前回の内容を踏襲・発展しつつ、今まで気づかなかった「革命的転換」により、「ハワイアン八卦掌とは何か」「中国武術とは何か」ひいては「流派とは何か」「文化とは何か」ということを深く考えさせる、またとない価値ある講座となった。

前回のレイモンド先生の講座もnote記事にしています。
こちらも人気記事ですので、ぜひお読みください。

八卦掌で拳打!?

今回の講座は「Dragon Rolls Over(ドラゴン・ロールズ・オーバー)」と「Shooting Palm(シューティング・パーム)」の練習を中心に行われた。
この2つの動作自体は前回もやったのだが、今回は、前回と異なる衝撃の展開。

グーに握った。

グーにしても、同じようにできるということが示された。

中国武術の流派の多くは「○○拳」と呼ばれる。
拳打を用いるからだ。
それに対し、八卦掌は「掌」と名付けられている。
開掌を基本とする故だ。
拳は基本、使わない。
(流派によっては使うとの情報もあるが、少なくとも私が学んだ王樹金系程氏八卦掌においては、拳打はない)

ところが、レイモンド先生は「Dragon Rolls Over」も「Shooting Palm」も、開掌でも拳打でもできることを示したのだ。

示されてみれば、なるほどである。
グーで殴りゃいいじゃない。
まさにその通りだ。ピッタリとはまる。

しかしこの「八卦掌でグーパンする」という発想は、今まで私の頭をかすめもしなかった。
流派名にまでなっている「掌」という単語が、私の中の「枷」になってしまっていたと痛感した。
そういえば、レイモンド先生は自分が教えている流派名を常に「バーグア(八卦)」と呼び、「バーグアチャン(八卦掌)」とは言わない。

ただ、なんでも拳打にすることができるわけではない。
私の知る王樹金系八卦掌を拳打にすることができるかどうか、ちょっと試してみたが、形を少し変化させればできなくはなさそうなものの、ちと弱くなっているような気がする。
またハワイアン八卦掌の中でも「Dragon Rolls Over」と「Shooting Palm」は拳打にできるが、それ以外の動きがすべて拳打にできるわけでもないと思う。

すべては「沿っているかどうか」であろう。
「沿っているかどうか」をきちんと観ていれば、八卦掌の中でも拳打を使えるということだ。

中国剣を捨てた!

今回の講座では、武器術も教授された。
「Dragon Rolls Over」と「Shooting Palm」が武器術となった場合にどのように変化するか。
これまた興味が尽きない内容であった。

まず、シラットで用いられるカリ・スティックを用いての練習が行われた。
受講者の練習は2人または3人で行われたのだが、一人で練習する場合こうなる、という手本をレイモンド先生が示そうとした。

レイモンド先生はまず、中国武術で通常使われるタイプの両刃剣を手に取った。
が、すぐに首を捻り、中国剣を置いて、見たことのない形の片刃剣を手に取った。
剣先近くの峰のほうに小さな切れ込みがあるもので、私は見たことがない。
シラットの武器か、それともハワイの武器なのか、私にはそれすら判別できない。

つまりレイモンド先生は、中国の武器を捨て、「馴染むのはこっちだ」とばかりに、どう見ても中国のものではない武器を選んで動作を示したわけである。

他にも「カランビット(シラットで用いる特殊なナイフ)」を用いた例も示されたが、中国の武器は結局一度も使われなかった。

「ハワイアン八卦掌は、もう既に“中国武術”ではなくなっているのではないか?」

私は、そんなことを考え始めた。

「形にフォーカスしてはならない」

もうひとつ、ハワイアン八卦掌が中国武術ではなくなっているのではないかと感じた内容がある。

レイモンド先生は、「形(Posture)にフォーカスしてはいけない」と指導したのだ。
形ではなく「動き」にフォーカスせよとの指導だった。

中国武術は、大多数が「形にフォーカスする武術」だ。
まず「形」の力を借り、形を入口にして分け入っていくのが中国武術の基本だ。

ところが、ハワイアン八卦掌では、形にフォーカスしてはいけない。
このことは、私は自分の経験で実証済みだった。

ハワイアン八卦掌においては、「形を維持しよう」とするのではなく、身体内の「動中静・静中動」に着目することによって型を成立させなくてはならない。
そうでないと弱くなってしまい、使えないのだ。

上記記事でも書いているが、八卦掌創始者・董海川は、「形のない流派」というものを編み出した、中国武術における突然変異的な異能者だったのではないか。
漢字文化をはじめとした「形」を規範とする文化の中で、「形のない流派」がいかに異質であったことか。

あまりに異質なため、八卦掌を学ぼうとした者たちがそれを理解できず、尹福、程廷華、梁振圃ら董海川の高弟たちが結局「形」を与えざるを得なくなったのではないだろうか。

つまり、董海川が伝えようとしていたことはむしろ、ハワイアン八卦掌のほうが近いのではないかとも考えられるのである。

文化の壁を超えて

私はというと、やはり第一義的には中国北方武術の使い手である。
「形」を規範とすることに慣れている人間だ。
その私からすると、ハワイアン八卦掌はやや学びにくさを感じていた。
何か、異質さを感じていたのである。

ハワイアン八卦掌は既に“中国武術”ではない。
まさにこれが、文化の交差点「ハワイ」の武術なのであろう。

しかし、それでもやはり「八卦掌」なのである。
異能者・董海川が創始した八卦掌は、あらゆる応用が可能なために無数の分派を生み出したが、とうとう中国文化の枠さえ超えてしまった。

文化の壁とは、想像以上に厚い。
根本的に異なる文化を、そう簡単に受け入れることができるものではない。
そもそも、自国の文化を深く理解することだって簡単ではない。

私にとっては、シラットは、ハワイアン八卦掌よりもさらに遠い。
しかし、ハワイアン八卦掌を通じてならば、もう少しシラットの近くに行けるかもしれないなどとも考える。

私たちの文化は既にハワイ同様、混ぜこぜ状態になっている。
それでいいのだ。
文化とは本来そういうものである。
日本人たる私の中に、中国の文化があり、アメリカの文化もある。
そして、ハワイという文化の交差点を通じて、東南アジアその他の文化も私の中に入ってくるかもしれない。
それは楽しみなことではないか。

受け入れ、学び、深める。
そういう中で、自分と世界が見えてくる。
そのためには、自由が何より重要だ。
あらゆる規範を認め、またあらゆる規範を脱することができる。
そういうことができて、初めて人間は少し先に進むことができるのかもしれない。

貴重な学びの機会を与えてくださったレイモンド・カーブリド先生と光岡英稔先生に、心よりの感謝を申し上げたい。

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