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「しあわせのかおり」2月13日前口上

どうも、理解とは何かと考え続けています。
父の従妹なのに歳下という親類が居るんですが、最近二人で話しをする機会があって、そこでたまたまFacebookの話しになりました。
その歳下のおばは、スマートフォンは持ってはいるものの、ソーシャルネットワークには全く手を出しておらず、あれは一体、何をどうしているものかと問われたので、Facebookのアプリから私の書き込みを見せました。

そこで表示された、「私の普段の書き込みが理解できない」という話題に目をとめたおばが、なんとなく考え込みます。
「ハゲが何を言っているのかわからない」というのは、私にとっては不定期に発生するイベントの様なもので、その記事も毎度の発生報告の様なものだったのですが、おばはそれを知る由もありません。
聞けば、そもそも私が何かを伝える気になっている相手に、どうしても伝えたかったら、わかる様に書くのではないか。そうでなければ、自分が言及されている文章だとしても、自分専用に発せられたメッセージじゃないので、基本的には雰囲気だけ掴んで流しても問題なくないか。
と、概ねそんな風に考えたんだけど、どうだろうということでした。
「あとは、書いた人に、どこまで興味があるかだけだよね。でも、どんなに興味があっても全部はわかるわけない」
おばの意見は何か、流石ソーシャルネットワークに全く興味の無い視点の確かさを感じさせる意見で、同時に我が意を得た様な気のするものでした。

コミュニケーションというと、対面の場での逐次的な意思の伝達という風に考えがちですが、メッセージの伝達と理解の時間感覚には、様々な形があります。
演劇を作っていく中で、「伝わる」「伝わらない」「伝える」「伝えない」というのは、私の中ではとても大きなテーマです。
1990年ごろに岩松了の作品を観て、今の、ひたすら日常的な空間を再現するスタイルのヒントを得、自分が作、演出を担当する集団を結成してからは、他人の日常を覗き見しているかの様な錯覚を覚える様な作品作りのスタイルをずっと模索していました。

必ずフィクションを一枚挟むというか、ひとつのお話しとして立ち上げながら、どうやって通過点や祝祭ではなく、フィクションの筈なのに、消費もできないまま日常の中に入り込んでくるものとして存在できないかと考えています。
毎度、どの作品にもメッセージは確かにあります。しかしそれは、主題として朗々と語りあげられるものではなく、象徴的なストーリーを伴うこともなく、全体に散りばめられ、完全な形でなくてもいつか伝わる可能性を持たせて、見る人の心か記憶の中に置いていくものとして意図しています。
演劇という形式の特性から、完全に完成することはないものと思っていますが、それはつまり、分かり得ないものを愛し、探求を続ける楽しみを得ているのだと考えています。冒険は続く。きっと楽しいのです。

ひとまず、しあわせの香りのお料理をお楽しみください。
そうこうしているうちに、お芝居は始まります。

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