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北海道寿都町 「核のゴミ」問題の本質


原発の使用済み燃料から出る高レベル放射性廃棄物、いわゆる「核のゴミ」。先日、その最終処分場の候補地選定に向けた国の文献調査に、北海道の寿都(すっつ)町が応募する方針であることが明らかになった。

私のnote初投稿記事がこの話題というのは、正直なところかなりツライ。だが、「核のゴミ問題」という側面から見ても、「人口減少社会における将来のまちづくりのあり方」という側面から見ても、今の時代を生きる私たちが、この問題から目をそらしてはならないことだけは確かであろう。

そこで今回は、以前、北海道職員として地域をフィールドに活動していた自身の経験も踏まえつつ、多角的な視座からこの問題を深掘りしてみたいと思う。何かのご縁でこの記事に触れることとなった方々に、「核のゴミ」問題の本質を知ってもらうきっかけとなったらありがたい。


「核のゴミ」問題の論点は2つある


ここ最近のメディアの報道を見る限り、寿都町が将来的に「核のゴミ」の受け入れ先になるのかどうかというところに、焦点を当てた伝え方が目立っている。

先述のとおり、「核のゴミ問題」は、いずれ私たち自身で解決を図らねばならない課題であることは確か。最終処分場がいったいどこの地域につくられるのかというのは多くの国民の関心事でもあるから、メディアの報道が処分場建設の行方に特化される傾向が強まるのは、ある意味、必然とも言えるだろう。

ただ、この問題にもうひとつの重要な論点があることを、私たちは忘れてはならない。それは、人口減少に伴う地方都市の衰退だ。人口の減少に伴い、今後さらなる町税収入の減少が見込まれる中で、自治体の首長がまちづくりに必要な財源をなんとかして確保しようと努力することは、至極当然のこと。このことを横に置いて、メディアが処分場建設の行方だけにフォーカスした報道を繰り返すことは、世論をミスリードすることにつながることも懸念される。

あえて後者の観点からだけ言えば、やり方の是非はともかく、将来のわが町のあり方について、口ではいいことばかり言っているのに何ら具体的な対策を示そうとしないどこかの自治体の首長よりも、寿都町の片岡町長のように何とかして未来の町民の生活を守らねばと具体的な行動を起こす方が、むしろ建設的だとさえ言えるだろう。

私たちが、この寿都町「核のゴミ」問題を正確に理解するために必要なのは、「処分場建設の行方」と「人口減少社会における将来のまちづくりのあり方」という2つの論点があることを、しっかりと押さえておくこと。そして、その落としどころを探ろうとするとき、これら2つの論点をそれぞれ切り離して議論すべきであること。このように、私は考えている。


問題の本質は「将来のまちづくりのあり方」


先述した2つの論点のうち、前者については、「特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律」に則っていわゆる「核のゴミ」を処分するという方針だけは決まっているものの、最終処分場所を含めた具体的な方策はまったく見えてこないのが実情だ。

この点、政府は最終処分施設の適地マップを公開しているが、現状は寿都町を含め適地とされた地域に該当する自治体が、実際に最終処分場設置を受け入れる目途は立っておらず、今後も最終処分地の選定は間違いなく難航するであろう。

つまりこの論点については、一朝一夕に解決できる問題ではないということ。したがって、この問題は避けて通ることが許されない極めて重要な国家的課題である反面、寿都町が抱える将来のまちづくりへの不安とは切り離して議論すべきだというのは、先ほども述べたとおりである。

そこで、今度は、後者の論点について、少し思いを巡らせてみたい。

寿都町にとっての喫緊の課題は、年々ひっ迫する町財政を安定化させ、人々が住みやすいと思える「まちづくり」を将来にわたって実現し続けること。つまり、この目的が達せられるならば、現状はあくまでも文献調査への応募を検討している段階とはいえ、何も「核のゴミ」関連施設の誘致に自ら名乗りを上げる必要はないのである。

にもかかわらず、片岡町長が文献調査に手を挙げる意思を示したということは、北海道のはずれにある小さな町の財政が、それほどまでに危機的な状況へと追い込まれている証しだろう。批判より先にやらなければならないのは、まずは地元に寄り添い、ともに問題解決に向けたアイディアを出し合うこと。ここをすっ飛ばして処分場誘致の是非だけを議論してしまうと、この問題の本質がかすんでしまい、何ら根本的な問題解決に至らないことを私たちはきちんと理解しておかねばならない。

相手の気持ちを無視して、感情的な批判を繰り返せば、それはやがて、地域間、あるいは市民の間に感情的な対立を生むことにもつながっていく。これだけは、何としても避けなければならない最悪のシナリオだ。ただでさえコロナ禍の中で排他的な言動が目立つようになった現代社会において、福島第一原発事故が生んだ都市と地方の対立といった構図が再び浮かび上がるようなことがないよう、私たちはこの問題の本質としっかり向き合っていく必要があるのではないだろうか。


寿都町の視座に立つことの大事さ


ところで、「核のゴミ」の最終処分場をわが町に受け入れる、あるいは受け入れにつながるような行政判断を下すということは、言うまでもなく自治体の首長にとって非常に重い決断となる。

だってそうだろう、いくら社会全体の中で見れば必要な施設であると理解していても、何もわざわざ自分の住む町に「核のゴミ」最終処分場を誘致しなくたっていいんじゃないか?

多くの寿都町民がそう思うのは当たり前のことだし、推測の域は出ないものの、片岡町長本人だって、忸怩たる思いがある中で苦渋の決断をしようとしているのかもしれない。少なくとも、この問題におかしな利権が絡んでいない限り、そう言い切ってもいいはずだ。

これは、"自分事"として考えてみれば、誰だってすぐに理解できるはずのこと。だから、内外野を問わず、感情的、短絡的に片岡町長の考えを頭ごなしに否定することは明らかに正義に反することであろうし、ましてや寿都町産品の不買運動を起こすなどという行為は、決して許されることではない。

これは、決して他人事ではない。全国民が、"自分事"として考えなければならない重要な問題なのだ。


合致した寿都町と国の狙い


利権云々の勘ぐりを措くとすれば、片岡町長が、なにも私利私欲のために国の文献調査に応募しようとしているわけではないことは明らかだ。

応募の目的は、国からの電源立地地域対策交付金を財源として、町の財政を安定化させ将来にわたって住民が安心して暮らせる町を守っていくこと。片岡町長本人が同様の趣旨のことを自らメディアに語っていることからしても、その目的に一切のブレは感じられない。

そのやり方の是非はともかくとして、寿都町の狙いはただ一つ。町の財政不安を解消するため、国から多額の交付金を引き出すことなのである。

一方で、国からすれば、これまで国策として実用化を目指してきた核燃料サイクル事業がとん挫する中で、自らの意思で「核のゴミ」最終処分場設置に向けた文献調査に応募しようという自治体が現れたというのは、願ったり叶ったりのことだろう。

そういう意味で言うと、少なくとも表面上は寿都町と国の狙いが合致しているようにも見える。さらに、片岡町長が「道の言うことは聞かない」と公言していることから察すると、寿都町も国もあくまでも当事者は自分たちだという立場を崩していないのも確かだ。法律上、文献調査の段階で都道府県が介入する余地がないことを踏まえれば、理論的にはまさにそのとおりでもある。だからこそ、片岡町長は「外野がとやかくいう問題ではない」とでも言いたげな強硬な態度を一貫して取り続けているのではないだろうか。

ただし、法律的に見れば、現状の当事者が寿都町と国だけだったとしても、寿都町の将来のことを考えれば、道や近隣の町村との連携を完全に放棄するという話にはならない。もしかすると片岡町長なりの戦略があって、現状は頑なな態度を崩さずにいるのかもしれないが、客観的に見ると、寿都町と道、あるいは近隣自治体との連携を分断しようとする国の策略にどっぷりとハマってしまっているようにさえ見えてしまう。

寿都町が目指すのは、処分場を誘致して国から多額の交付金を引き出すことではなく、人々が住みやすいと思える「まちづくり」を将来にわたって実現し続けることだろう。もし、国から多額の交付金を引き出すことが目的化しているとすれば、それは『目的』と『手段』を見誤っているということ。よもやそんなことはないだろうが、そんな誤解を受けないようにするためにも、片岡町長には地域の、そして町民の将来を見据えた冷静な行政運営を期待したいところである。


次回は、国の交付金事業の闇に焦点をあて、さらにこの問題の本質に迫っていきます。是非、ご参考にしていただければと思います。

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