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「核のゴミ」問題の出口を考える


今週に入ってから、「核のゴミ」の最終処分場選定に向けた文献調査について、北海道神恵内村の神恵内村商工会が村に応募検討を求め、村議会あて請願書を提出したというニュースが流れた。北海道内でも、寿都町と同じ後志(しりべし)地域から降って湧いた話とあって、近隣の地域には大きな衝撃が走っている。

ただし、寿都町と神恵内村では、ともに「財政状況が厳しい後志地方の過疎のまち」という共通項はあるものの、現状の立ち位置に明らかな違いがあるのも事実。現状、このことをしっかりと報じるメディアを今のところ見かけないという事情もあるので、今回は寿都町と神恵内村の現状の立ち位置の違いにもフォーカスしながら、この問題の今後について、できるだけ客観的な視座から考察してみることにしたい。

なお、今回も"麻薬"とか"クスリ"という物騒な言葉を多用することになってしまうが、これは、交付金に依存した財政運営を目指すことが、どれだけ危険な賭けなのかを伝えるためのもの。言葉選びに否定的な意見があることは重々承知しているが、地域を揶揄するような意図は一切ないし、むしろ徹底的に応援するのが私の立場。だから、どうかご容赦願えたらと思う。


寿都町と神恵内村では大きく事情が異なる理由


今回の問題で、期せずして注目の的となってしまった寿都町と神恵内村。この2つの自治体の間には、現在の立ち位置に大きな違いがある。ただし、立ち位置に大きな違いがあると言っても、何も人口だとか面積だとかの話をしているわけではない。

人口約3千人の寿都町に対して、神恵内村の人口は寿都町の1/3にも満たない約900人。たしかに規模の違いはあるものの、今回の問題で焦点を当てるべきポイントはそこではないだろう。ズバリ、注目すべきは、電源立地地域対策交付金の交付状況だ。


ところで電源立地地域対策交付金には、直接市町村に交付されるケースのほか、北海道を経由して交付されるケースがある。ただ、ここで直接か間接かを掘り下げることにあまり意味はないので、その切り分けをせずにデータを観察してみようと思う。

北海道経済産業局のホームページに掲載された平成30年度の補助金等に関する開示情報によると、平成30年度に国から神恵内村に流れた交付金の額は合算でおよそ1億円。その一方で、寿都町にお金が流れた形跡ははっきりと確認できない。

かなり乱暴な言い回しにはなってしまうが、できるだけわかりやすく表現するとすれば、このような言い方になるのだろう。
寿都町はまだ"麻薬"に手を出してはいないけれど、神恵内村はすでに国によって"クスリ漬け"にされてしまっている、と。


では、なぜ神恵内村には、多額の国の交付金が流れているのだろうか。それは、泊原発が立地する泊村に隣接しているからという単純な理由。すなわち、近隣に泊原発を設置することの迷惑料として、年間約1億円もの交付金が神恵内村に落ちているのである。

ただ、少なくとも神恵内村が主体となって泊原発を積極的に誘致したといういきさつは確認できないから、村や村民が自ら進んで"麻薬"に手を出したとわけではない。だから、「自業自得だ」という批判があるとすれば、それははっきり的外れであると言っていい。

だが、あくまでも結果的にではあるけれど、無意識のうちに交付金への依存体質が村内で構築されてしまったことが、文献調査への応募検討に結びついていることは間違いないだろう。なんともせつない現実だけれど、これは交付金の麻薬的性質がどれだけ恐ろしいものであるかを如実に示しているとも言え、なんとも情けなく、そして嘆かわしいことでもある。


このように、電源立地地域対策交付金の交付状況という視点で見てみると、寿都町と神恵内村では、現状の立ち位置が大きく異なることがはっきりとわかる。そして、両自治体の立ち位置の違いを知れば、「核のゴミ」最終処分場の誘致に手を挙げることの意義の違いにも気づくことができるはずだ。これは、「核のゴミ」問題を語る上で非常に重要なポイントになることだから、是非、皆さんにもしっかりと押さえておいてもらいたいと思う。


ブレーキ性能にも大きな違いが


今回のコトの発端となった寿都町ではあるが、こちらの現状は「今、まさに"麻薬"に手を出そうとしている」タイミングであるから、もしここで思いとどまることができれば、国に"クスリ漬け"にされることを免れられる。すなわち、厳しい財政状況の中ではあっても、この先も地域に住まう人々の手で自立したまちづくりを推進することが可能であり続けるということだ。

「今なら、まだ間に合う!」

だからこそ寿都町が文献調査への応募を思いとどまるようにと、私も微力ではあるが、こうやって批判があることを覚悟で重たい文章を書いたり、自分にできることを必死にやっているのだ。


ところが、神恵内村の場合はそう簡単にはいかない。とても冷淡な言い方にならざるを得ないのがとても悲しいが、すでに交付金に依存しないまちづくりが困難な状況に追い込まれてしまっている以上、冷静に考えて、もはやこの村に、健全な形で自律的に財政を立て直す力など残ってはいないだろう。

現状は、人口千人にも満たない自治体に年間約1億円もの交付金が流れているのだから、自治体財政的には、なんとか"やっていけてる"状態にはある。ただ、"やっていけてる"のは、あくまでも行政だけの話だ。

汗をかかなくても迷惑料でやっていける自治体は、どうしても独自の経済政策の立案に力が入らなくなる傾向が強くなってくる。その結果、まちの産業はどんどんと衰退していき、地元で公共事業を多数受注するような企業を除けば、地域経済はどん底に向かってまっしぐらという状況に追い込まれてしまうのである。

実際、今回の報道では、神恵内村役場が主導して文献調査への公募を検討しているのではなく、地元の商工団体が文献調査への応募を熱望しているとのこと。もし報道が事実であるとすれば、これはとても合点のいく話でもあるのだ。


寿都町では、現状、地元の商工団体は文献調査への応募に反対であると伝えられている。つまり、町長が運転する暴走者に同乗しようとする町民は少数で、多くの町民が必死にブレーキをかけようとしているというのが今の構図。暴走を本当に止められるかどうかはともかく、少なくともしっかりとブレーキが利く状態を維持できていることは間違いない。

では、一方の神恵内村はどうか。もちろん、文献調査への応募に反対する村民の方もいるだろうが、村民の代表である村議が中心となって文献調査への応募を熱望しているとなると、すでにかなりブレーキが利きづらい状態に陥っていることは間違いだろう。

だから、寿都町よりも神恵内村の方が事態はかなり深刻。これが、私の現状認識である。


神恵内村を説得するのは困難!?


実のところ、今回、寿都町の片岡町長がこの問題をぶち上げた時、私は、泊村ないしその周辺地域からも同様の声が上がることを予測していた。はっきり言ってこの地域には、「核のゴミ」最終処分場の誘致に関し、寿都町に先を越されてはならない特段の事情があることが容易に想像できるからだ。

では、なぜそう言えるのか?
表現が汚くて本当に心が痛むが、それでも皆さんに伝わりやすいように断腸の思いでこんなヒドイ例えを用いてみようと思う。

オイオイ、同じ後志地方にある自治体(寿都町)のトップが、どうやら"クスリ"の魅力に気づいちゃったみたいだぞ!
聞くところによると、今、俺たち(神恵内村)がやってるヤツよりも、もっと効き目が強いらしい。
今、こっちが先に手を打っておかないと、アイツらに貴重な"クスリ"をかっさらわれるかもしれない。
こりゃマズイ、動くなら、今しかないんじゃないか。


わかりやすく言えば、このような『構図』である。

もちろん、この例は比喩であって、神恵内村の誰かがこんな酷い発言をしたことなど一切確認されていないからその点は誤解しないでほしいのだが、すでに"クスリ漬け"にされてしまっている状態の神恵内村にとって、「核のゴミ」最終処分場の誘致というカードを自ら手放す合理性に乏しいのもまた事実。残念なことではあるが、現在の「核のゴミ」最終処分場の誘致に関する『構図』を説明しようとするなら、上記以外の説明は正直難しいだろう。

つまり、「北海道内の複数の自治体による"麻薬"の奪い合い」という目を覆いたくなるような事態が、今、まさに始まろうとしているということだ。とても嘆かわしい話だし、到底受け入れ難いことではあるが、あえて現実を直視して言うならば、それが今を生きる私たちの現在地であることを認めざるを得ないのかもしれない。


「核のゴミ」問題の出口を探ることの重要性


ここからは、とても残念な話をしなければならない。が、避けては通れない話だから、決して目を背けることなく皆さんにも耳を貸してもらえたらありがたい。

なお、「核のゴミ」と「交付金」とを一緒くたに議論するから話が複雑になるので、一旦、交付金の話題を切り離してしばらくは話を進めていくことにしようと思う。


仮に、今すぐ泊原発の再稼働をあきらめ、ただちに廃炉作業を開始したとしても、過去に泊原発で発生した「核のゴミ」をどこかの地域で処分する必要があるのは当然のこと。つまり、この国のどこかに処分場をつくらなければならないことだけははっきりしている。

もし、ゴミの発生源となった原発で発電した電気を利用している者(受益者)の責任において、「核のゴミ」を処分するのが適当と考えるのであれば、北海道内のどこかに処分場を設置しなければならないのもまた事実なのだ。

もちろん、日本全国の「核のゴミ」を北海道に集めて処分することに合理性を見いだすことはできないから、あくまでも泊原発で過去に発生した「核のゴミ」に限定した措置ということにならないとそれはおかしい。ただ、いかにそんな条件付きであったとしても、捨て場のないゴミを排出し続ける原子力発電の即時中止をかねてから主張し続けてきた者からすれば、到底受け入れ難いことのようにも思える。

だが、皆が「好んで、原発でつくられた電気を使ってきたわけではない」と主張し続けたところで何の解決にもならないし、日本という法治国家に生きる私たちとしては、こうした残念な現実を受け入れざるを得ないと考えた方が建設的であろう。私自身も忸怩たる思いであるが、次の世代に引き継ぐ負の遺産を少しでも減らすためにも、そこは冷静に考えなければならないとも思っている。


こうして考えてみると、いずれにしろ「核のゴミ」最終処分場の適地がどこなのかを検討することを避けては通れないことになる。もちろん、国にやらされるということではなく、北海道民が自分事として自発的に考えるという意味で、だ。

では、北海道内における処分場の適地とはいったいどこなのか。あえてここで触れておくが、もしこの先、北方領土問題に進展があって、ひとまず色丹島と歯舞群島の2島だけでも返還が実現した暁には、おそらくそこを「核のゴミ」の最終処分場にすることを国はすでに具体的なプランの一つに描いていると私はにらんでいる。実際、国が公表した「核のゴミ」処分場適地マップを見ても、はっきりとこのような意図を感じ取ることができると言っていいだろう。

がしかし、実現可能性という意味で言えば、相手がある話でもあるから、かなり可能性が低いプランだとも言える。だからここでは、北方領土を「核のゴミ」最終処分場にするというプランを除外した上で、以下、私なりの考えを述べてみることにしたい。


寿都町に無くて神恵内村にはある一定の合理性


私が考えるもっとも合理的な方法は、泊原発の敷地内で「核のゴミ」の最終処分を行うこと。現状、法改正を行わない限り実現できない方法ではあるが、「核のゴミ」を広域に拡散させないことを最優先に考えるのならば、これが最も合理的な方法であると言えるはずだ。「トイレがなかったホテルの内部にトイレをつくる」だけなのだから、理屈的にも最も理にかなっているとも言えるだろう。

私はこの選択肢を最優先に検討を進めるべきだと以前から考えてきたが、活断層の問題などによって、泊原発の敷地内での最終処分が困難であるというシナリオも当然考えておかなければならない。そこで次に合理的なのが、泊原発の近隣の地域に最終処分場を設置するという方法だ。もちろん、これも「核のゴミ」を広域に拡散させないことを最優先に考える中での措置である。

そうすると、この次善の策の中には、神恵内村に泊原発から排出された「核のゴミ」最終処分場を設置するという選択も含まれることになるし、「核のゴミ」を広域に拡散させないという観点から見れば、そこに一定の合理性を見いだすことができるという帰結になる。


もちろんこの観点から言えば、寿都町に最終処分場を設置することに一切の合理性を見いだすことができないのは言うまでもない。

仮に「泊も寿都も同じ後志地域じゃないか」という理屈を誰かが持ち出したとしても、泊から寿都までの交通インフラの整備状況や、厳しい冬場の気象条件などを考慮すれば、「核のゴミ」を泊から寿都に移動させることは、安全面はおろか輸送コストの面でも課題が多く、計画が具体化すればするほどその合理性に疑問符が付くことは間違いないだろう。

そう、これが小見出しにある「寿都町に無くて神恵内村にはある一定の合理性」のひとつの意味だ。そして、そこに神恵内村がすでに交付金に過度に依存した財政運営を強いられていることを加味して冷静に考えてみれば、神恵内村が文献調査に手を挙げることを否定する理由が希薄であることに私たちははっきりと気づかされるのである。


私たちが今やるべきこと


前項で述べた論理の帰結については、正直なところ私自身もモヤモヤするし、「ゴミ捨て場も確保できていないのに、原発推進なんて政策を掲げて利権を得てきた者どもがすべての責任を取るべき。いっそのこと、原発マネーを原資に建てた彼らの私邸の庭で『核のゴミ』を最終処分すればいいのに!」みたいな破滅的な主張に寄り添いたい気持ちが湧いてこないわけではない。

ただ、私たち国民が今やるべきことは、あれダメこれダメと否定するばかりで具体的な解決策を示さない無責任な行動をとることではないだろう。そう考えると、単に「反対!反対!」とだけ声を上げるのはちょっと違うという結論に自然と行きつく。

じゃあ、どうすればいいのか。ひとつの考え方として、以下、私が個人として考える具体的な対応策を書き記しておくことにしたい。


寿都町が文献調査に手を挙げることについては、地域に住まう者が誰一人として"WIN"にならないことが明らかだから、問題意識を共有する人が力を合わせ、全力で『立候補』を思いとどまるよう説得すべき。"麻薬"と縁のなかった人が、今、まさに"麻薬"に手を出そうとしてしているところを見て、心ある人間がそれを制止しないという選択は絶対にあり得ないと思う。

今回、突然北の大地に降って湧いた「核のゴミ」問題について、私は北海道民だから間違いなくグラウンドの中にはいるが、寿都町民でも隣接する自治体の市民でもないから居場所はあくまでも"外野"。ただ、たとえ"外野"や"観客席"からであったとしても、小さいけれど魅力いっぱいの『寿都』というまちの未来を明るいものにし、人々が安心して暮らしていける環境を維持していけるよう積極的にサポートしていく努力をすべきであると思っている。


一方で、神恵内村が文献調査に手を挙げることについては、ただやみくもに反対することはしない。なぜなら、いくら私たちが正論を並べ立てて反対の意思を示しても、それはすでに"クスリ漬け"にされてしまった人に「"麻薬"はもうやめたほうがいいよ!」と言っているのと何ら変わりがないからだ。

もちろん、正論を放棄することが理想だと言っているわけではない。こんな物言いをしなければならないこと自体が、とても悲しいことでもある。だが、もし正論が通じない相手を説得するのなら、現実的な別の方法もあるのではないかということが言いたいのだ。

なお、こんな表現を使えば、神恵内村で自立した取組をしている方々を冒涜することにもなりかねないことは重々承知しているのだが、変にオブラートに包んだ遠回しの表現を使うことだけはどうしても避けたい。「心外だ!」と思う方がいるのも当然。その点は、本当に申し訳なく思っているが、あえてヒリヒリするような表現を使わせてもらったのには理由があることをここで付け加えておきたい。


では、別の方法とは何か。それは、「泊原発で過去に発生した『核のゴミ』に、処分の対象を限定する形での文献調査なら構わない」という現実的な落としどころを示しつつ、声を上げていくという方法である。

もし神恵内村が、この機会に交付金依存からの脱却を目指し、自ら文献調査への応募を思いとどまることになれば、もちろんそれが理想には違いない。本来「核のゴミ」の問題は、交付金の話とは完全に切り離して国民全体で議論すべきなのだから。けれども、もしそれが現実的に難しいのならば、神恵内村のほか、北海道全体にとって最も負の影響が少なくて済む方法を模索することも大事なのではないだろうか。

まず、この手法のひとつのメリットは、「自分たちの地域が出した『核のゴミ』の処分は、自分たちが責任を持ってやりますよ」という対外的なメッセージを発することにもなり、北海道内、あるいは神恵内村内で文献調査への応募に反対する人たちに対して全国から一定数浴びせられるであろう「無責任論」を、完全に封印できること。

実際、道の条例の文言を見ても、「特定放射性廃棄物の持込みは慎重に対処すべきであり、受け入れ難いことを宣言」と書かれているから、泊原発で発生した「核のゴミ」を、近い将来、仮に神恵内村に整備した施設で最終処分することになったとしても、それは条例違反には当たらない。ということは、この案が現実的な落としどころの一つにはなりうるということだ。


もうひとつ、この戦い方には、別の大きなメリットがあることも強調しておきたい。それは、もし国が、国内で発生したすべての「核のゴミ」を一カ所に集約して最終処分することを考えているとすれば、泊原発で過去に発生した『核のゴミ』に対象を限定する形での調査には難色を示す可能性も高い。

もし、その後、「概要調査」を経て「精密調査」まで進んだ場合でも、泊原発で過去に発生した『核のゴミ』だけを最終処分の対象に限定するならば、実際に掘る坑道の大きさも、当然、ゴミの量に合ったサイズにしないと理屈が合わないことになる。

こうやって、地域として必要な最低限の"義務"はしっかりと果たしつつ、一方で理不尽な国の要求には毅然とした態度でNOを突き付ける。神恵内村を絶対に日本の核のゴミ捨て場にさせないために、時には道や関係自治体が自ら率先して戦略的な戦いを展開していくことも大事であると私は考えているのだが、皆さんはこれを聞いてどうお感じになられたであろうか。


一連の記事の最後に


私は、この一連の記事の最後に、上記のようなひとつの現実論を示した。これは、ただ「反対!反対!」と叫び続けることは、次の世代に顔向けできない無責任な行為であると思っているからにほかならないからだ。

とはいえ、もともと「核のゴミ」問題と市町村財政の問題を結びつけること自体に大きな問題があることを、私たちは絶対に忘れてはならない

 「核のゴミ」問題の解決を図るのが困難だからと、地方の自治体をひとまず"兵糧攻め"にしておいてから"ニンジン"を目の前にぶら下げ、最終処分場の建設を受け入れるよう迫る。
 でも制度上は、いわゆる「手挙げ方式」にしておいて、「別に、国が地方に押し付けたわけではありませんよ。地方が自らの意思で手を挙げたんですよ」という伏線を張っておくことは忘れない。
 そして最後は、「"ニンジン"に喰いつかないのは自由だが、経済的に自立できないのは地方の行政や住民の努力不足のせい。だから『夕張』みたいになっても、国は知らないよ」と無慈悲に地方のまちを突き放す。


こんなやり方が、許されていいはずがないだろう。巨大な権力を背景に弱い立場の地方をやり込めようとする国のやり口は、ヤクザと同じかそれ以下だ。

この問題の根っこは、地方財政の問題ではない。もちろん、地方のお金の使い方にも問題がないとは言えないが、あくまでもこの「核のゴミ」問題の核心は、この卑怯な国のやり方にあるのだ。

だって、そうだろう。もし国が、正当なやり方で「核のゴミ」問題の解決を図ろうとするのなら、一旦、すべての原発の稼働を止め、発生する「核のゴミ」がこれ以上増えないようにしてから、処分場の用地選定の議論を進めないとおかしい。

にもかかわらずそれをやらないということは、「どこかの地域をとりあえず"クスリ漬け"にしてしまえば、後は国の言うことを何でも聞くようになるから大丈夫。たとえ『核のゴミ』が増え続けても、いずれ自ら最終処分場の誘致に名乗りを上げる自治体が現れるからまったく問題はない」と考えていることの、何よりもの証しである。


つまり、私たちが向けるべき矛先は、寿都町でもなければ片岡町長でもないし、もちろん神恵内村役場や商工会でもない。ズバリ、国なのである。

そして、私たちが恵まれているのは、この国では国民の意思で政治や国の行政を変えられる可能性が残されているということだ。今の香港に見るように、声を上げるだけで不当に身柄を拘束されるような国がたくさんある中で、今の日本では、自分の意見を自由に言うことはできる。だから、私たち国民が本気で「核のゴミ」問題に向き合えば、変えられることだってきっとあるに違いない。

おそらく今年中、遅くとも来年には大事な選挙がある。そこで、各候補者が掲げる政策にじっくりと目を通し、美辞麗句を並べるだけの候補者や社会的な知名度があるだけで中身が伴わない候補者の素性をしっかりと見抜いて、そんな候補者には決して票を投じない。国民一人ひとりがこれを徹底することができれば、「核のゴミ」問題は国民全体が受け入れ可能な形を模索する方向にシフトしていくかもしれないと私は本気で思っている。

つまるところ、これは私たち国民の問題。国民全体が当事者意識を持って解決に向かって動かない限り、この「核のゴミ」問題は、次の世代、さらにその次の世代へと付け回しになってしまう。私たちは、いよいよそのことを自覚しなければいけない時に、今、来ているのではないだろうか。

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「核のゴミ」問題に関する投稿は、ひとまずこれでひと区切りにしようと思います。

寿都町も神恵内村も、風光明媚な素敵なまち。そして美味しい海産物だって獲れる。それは、地域に住まう人々にとってだけでなく、私たち北海道民、ひいては日本国民にとっての財産でもあるんですよね。

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私とまったく同じ考えの人を増やそうとは思わないけれど、この「核のゴミ」問題を自分事として考える人は、どんどんと増えてくれたらいい。そんなふうに思っています。

最後に、今回の一連の投稿では、やれ"麻薬"だとか、やれ"クスリ"だとか汚い表現をたくさん使ってしまいました。もちろん意図があってのことではありますが、気を悪くされた方がいらっしゃっいましたら、ここで重ねてお詫びいたします。

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